ドキドキする

こうありたい、こうであるべきだ、、そういう熱い思いは地面の中で準備をして春を待つ植物のようなものなのかもしれない。昨日の京都女子大の授業で、「ベルリンフィルと子供たち」を生徒たちと一緒に見たせいか、そんなことをふと考えた。
春の祭典は、原始の時代の人間が春をむかるための「犠牲」をはらった時代の「いけにえ」の物語だ。いけにえ、という言葉はいかにもなまなましく、血のしたたりといったものを連想させる。それを、ぼくはどちらかというと「望まないものがいけにえとして無理やり殺される」そういうストーリーとしてとらえていた。
しかし、その映画の中でベルリンフィルの指揮者が言う。「それは栄誉なことであったのだ」と。
自分から望んで次の春への犠牲となること。そういう意味だったのかと僕は気づく。
そしてその映画の中で、素人の子供達にダンスを教えるアーティストのダンサーが言う。
「我々はまずこどもたちの皮膚の下に入り込む。そして次第に自らの姿をひいていく。そうすることで彼らを脱皮させるのだ」と。
彼はどちらかというと最初に生徒たちがいやがるほどきびしくする。担任の先生は言う。「なにかをやらせるのはいいとしてもいいけど、もう少し説明してあげてくれれば」と。でもダンサーは答える。
「いや、私は言葉で説明することもできる。しかしわざとこうしているのだ」と。

ある意味、それは言語を介さず急に相手に触れることであり、そこにはいくばくかの暴力性も含む。しかし、そこにはもっと深い意味での愛情や伝えたいことがある、とも言える。
ぼくはどちらかというと、そういうふうに「入りこんでくる」タイプの先生や大人が大嫌いだった。いや大人になっても基本的にはそうだったと思う。

触れること。入り込むこと。
それについて考えるときに、ぼくはダンサーの佐久間さんとのワークショップのことを思い出す。
またそれについていつか書いてみたいと思う。

音楽のワークショップと違い、ダンサーのワークショップは、いや、特に佐久間さんのワークショップには
「相手に直に触れる」
という大きな違いがある。
ぼくは一度佐久間さんといっしょにそれを体験して、すごくドキドキした。

音楽は、逆に、たとえばその人が離れていたり、視線があっていなくても、空気を媒介として届くもの。
そういう「やさしさ」がある、ともいえる。
でも、もっとダイレクトな表現というのもある。
なんかすごく色気があるな、と思った。エロチックでさえある。

ダイレクトな関係。それを少し忘れていたかもな、と思った。
ドキドキすること。それはそれで、すごく素敵なことだ。

2017-01-18 | Posted in 未分類No Comments » 

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