パン屋、居酒屋、ミュージシャン。


(写真はいまは亡き夢吉)

パン屋はうまいパンを作ることに専念すればいい。そういう意味ではミュージシャンは自分の音をよくすることを考えてればいい。しかし、パン屋にも悩みはある。

友達のミュージシャンに相談されたことがある。「〇〇さんっていう有名なミュージシャンとあなたは絶対いっしょにやるべきだ」と誘われて困っている、どうしたものだろうか、という相談だ。こういうのは非常によくある話だと思う。似たような相談に「でっかい仕事があるから絶対やるべきだ」と言われて迷っている、とか「メジャーでやるべきだと言われて考えている」とか。ぼくはその友達のミュージシャンに、「その<有名なミュージシャン>の演奏は好きなの?」と聞いた。すると「聞いたことがない」という答え。
ぼくはなんと答えるか考えた末に、「あのさ、ファミレスとかコンビニもいろいろあるけど全部有名だよね。あと一流ホテルのレストランとかも」と答えた。料理人だとして働いてみたいところはある?と聞いた。

食べ物を作る人に例えてみる、というのは、ぼくがミュージシャンとしてしばしば起こる問題について考えるときによく使う手だてだ。ものごとがシンプルでわかりやすくなる。
「いや、おまえがさ、料理人だとして考えたら、今回の話は、おまえが、有名なファミレスやコンビニやホテルのレストランで働いてみるべきだ、とか、誰かテレビに出てる有名な料理人といっしょにコラボしてみるべきだっていうのに似てると思うんだよね。もちろんそのファミレスやコンビニやホテルのレストランや、テレビにでてる有名人とかがすごく好きならやってみればいいと思う。でも、街角にもうまいパン屋とかあるし、地方に行くとその地域の人しか知らないものすごいうまい店とかもあるよね。どっちが好きかは好みの問題だと思うけど。」

こういうたとえ話でミュージシャンの仕事についての話がすっきり見えてくることがよくあってそのたびにそれが相手に伝わってうれしいような、悲しいような微妙な気持ちになる。
つまりミュージシャンの仕事では、いまだに「売れてるもの、有名なものはいいものだ」というへんな常識がまかり通っているということだ。全国的に売れているもの、有名なものが、悪いものだ、なんてぼくは絶対に言わない。ただ、食べ物で考えればすぐわかる。全国的に売れていたり有名なものは、全国的に売れていたり有名なものだ(笑)それとうまいまずいは関係ない。そんなことはある程度みんなが知っている。その中に、うまいものもあるしまずいものもある。もっと正確にいえば、その中にあなたがうまいと思うものもあるし、まずいと思うものもある。それはひとりひとり違う。
この「ひとりひとり違う」というところが食べ物には<ある程度>常識になっている。

食べ物の世界だったら、どっか地方のうまい居酒屋とか小料理屋にいって「いやぁ、君の料理はすごいうまいよ。ぜひ知り合いのファミレスチェーンを紹介するよ。」とか「いや、ホテル〇〇のレストランに入れる日も近いよ」なんて失礼なことをいうやつはまずいない(と思う。いるかも知れないが 笑)
でも不思議なことに、こと音楽になるとそういうことを言うやつがなんといまだに(!)いるってことだ。なんて文化程度が低いんだろう。文化程度が低いっていうのは、なんか高尚なことを知らないということや、文化に対する知識がないってことじゃない。ただもう「なにが失礼かがわかってない」ということで、その源はだいたい、「ものごとの中には上下じゃなくて好き嫌いで考えるべき自由なものがある」ってことをわかってない、ってことから起きる。

たとえばぼくはマイルスデイビスがあまり好きでない。マイルスデイビスは有名だし大御所だ。でも、別に、まぐろの大トロとかフォアグラがきらいな人だっている、ってことぐらいのことだと僕は考えている。しかしこれについても、昔「君は、マイルスデイビスって人がきらいなだけで音楽がきらいなはずはない」って言われてびっくり仰天したことがある。ぼくがあまり好きでないっていってるのに(笑)。好きにさせたいならそんな理屈を言わないでおいしいマイルスをタイミングよく聞かせてくれればいいだけの話だ。「君は、おいしいフォアグラを知らないだけだ」なんて、なんて文化程度が低いセリフだろう。白亜紀ぐらい昔の人かなと思ってしまう。
音楽を好き嫌いで語れない人をぼくはまったく信頼できない。

特にビジネス的に物事を考える人にありがちなのは「そうはいってもやはりマイルスはすごい」という理屈のもっていきかただ。いや、もちろん社会的にすごいし認められている、それだけの音楽の内容や実力がある、ということぐらい僕にだってわかる。フォラグラだって社会的に認められている。
しかしその上でも「好き嫌いは自由」というあたりまえのところを飛ばしてもらっては困るし、そこを飛ばす人は、音楽や美術、アートにかかわる前によく物事を考えた方がよいと思う。
フォアグラより玄米が好きな人もいるのだ。もしくは小松菜とか(笑)たとえはなんでもよいが。

ここ一ヶ月ぐらい仕事をしてても、ミュージシャンの周りにいる音楽業界の人たちの気持ちの持ち方は、どうしても二つにわかれるなぁ、というのが正直な感想だ。ぱっくり二つに別れるというよりは、同じ人の中にも両方の気持ちが見え隠れすることもある。
とてもそれは簡単な二つの態度で、
「あなたの音が好きだから、やってほしい。ぼくの知っている人たちに聞かせたい。そしてそれ相当な値段を払いたいし、気持ちよくできるように尊重したい。」という気持ちの場合と、
もう一つは、
「私は、あなたをどこかに連れて行ってあげることができる。」とか「大きいことやりましょう」という気持ちの場合だ。

後者の場合はとても警戒が必要だ、と僕は考えている。
大きいことって何?そのまえにあなたは私にとって何?っていう。

料理で考えてみよう。たとえば、イタリア料理界、というものもあるだろう。ホテル料理グループというのもあるかもしれない。新進気鋭の創作料理の流れというのもあるかもしれない。かに料理の新しいブームや潮流もあるかもしれない。新しくできるホテルで一流の料理人を探しているかもしれない。
いろんな文化の流れはそりゃあるだろう。

しかし、また最初の例に戻るが、自分がうまいなぁ、と思う店にいって、はたしてそういう流れの話を安易にするだろうか。
「君のこの魚の味はすごくうまいから、ぜひ<魚料理界>の、、」とか
「君のカレーはすごくうまいから、ぜひ今度<カレーサミット。の、、、>」とか
その時点でなんだかちょっとあやしくないだろうか?すぐわかる話だ。
でもまぁそういう人もいるんでしょうね。いるところには。

「あなたの料理はほんとにおいしい。だから今度ぼくの知り合いにたべてもらいたいんですがお願いできますか。」
そういう言葉が最初に出てこない人を、どうしてその料理人が話をしてみようと思うだろうか?

だからミュージシャンはへんな仕事の頼まれ方をすると不思議な気持ちになって、ぼくをはじめ周りの友達に相談するしかなくなってしまう。ほんとに私の料理が好きなのだろうか?という根っこのところの気持ち。
そういうせつない事例や気持ちにずいぶんぼくもぼくなりに長いこと向かい合ってきたつもりだ。
だからある意味音楽業界の人の見方にはある意味もう目が肥えている。

アートは好き嫌いだ、ということは、アートは恋愛だ、ということだ。

そしてぼくの周りの素晴らしいミュージシャンたちは、そういうどきどき感にみんな本気で取り組んでいる惚れるに足る人々だ。そこにはぼくは自信がある。
そしてそういういいミュージシャンが世界にはいっぱいいるんだと思う。それが楽しいことだ。

その人たちに恋愛してちゃんと<本人に>「告白」できない音楽関係者をぼくは信用しない。他にどんな理屈があろうとも。そんなことぐらいそういう気持ちでみてたらすぐ透けてみえる。ほんとに惚れてるのかな?って見てたらすぐわかる。
だから「〇〇業界のために。とか〇〇のために。」というのもアートの場合にはもっともだめなNGワードのひとつと考えている。個人と恋愛するというのが基本でしょう。なにかの文化のために一人一人が存在しているのではない。
あなたに惚れているといえないのはほんとうの意味で恋愛ができない人だ。ほんとは好きなのに、上から話してしまう、いうのは小学校に置いてきてほしい。恋愛はある意味自分がとても小さく感じることだったりもするだろう。そういうのがすてきじゃないか!と思う。
僕自身最近、うひゃーっと感激するくらい素敵なミュージシャンの人にあって幸せだった。でもなかなか誘えない(笑)でもそういう気持ちでいいんだよなーと自分で思っている。

まわりのミュージシャンの人にも自分に惚れてない人と安易に仕事しないでほしいなぁ、と勝手に思ってしまう。恋愛でいうとまぁ、いっしょに食事してみる、、ぐらいならいいのかもしれないが(笑)
(食事がミュージシャンでなににあたるのか知らないけど。まぁ、、ミーティングかな?笑 違うかな。あんまりちゃんと考えてない・・・)

気持ちのないアートのビジネスなんてそこにはまったくなんの意味もない。
たとえそれがどんな仕事になったとしても。

2017.5.30.

 

2017-05-30 | Posted in EssayNo Comments » 

関連記事

Comment





Comment