月を指す指。ワークショップ。そしてレゲエ。

月を指す指は月と同じものではない

仏教の言葉

未来や夢はいま存在しているものではない。それは誰かの頭の中だけにある。それが現実化される際には、物理的な「量」と「質」のコントロールが必要になる。それには現実がリアルに「感じられて」いなければならない。そこに必要なのはパワーではなく「やさしさ」「繊細さ」である。時代の基準はすでにそういうセンスにうつっている。

評価基準は、「夢」や「実現」の方にあるのでなく、「現在の場所と人」をどれだけ尊重できているか、という「センス」のほうにある。それが「実現」である。実現は未来にあるのではない。
いま現実に存在しているものを繊細に尊重できない「夢」はないほうがよい。夢はなくても誰も困らないからである。誰かにとって必要な物語であっても他人にはそれはダイレクトに必要ない。

しかし現実的なことは直接影響する。

ものが少なかった時代は、とにかく「未来を創る」という発想が優先された。しかしものや人で充満している現代はへたに動くと誰かが怪我をするから「すぐは動かずに」自分を含め、「誰も怪我をしないように動けるときだけ動く」ということが大事になってくる。パワーと作戦だけで進むことができた時代はある意味まだいろんなところに隙間があいていたからなのじゃないかと思う。

「地獄への道は善意という敷石でしきつめられている」という言葉がある。

ちょっと辛辣な言葉ではあるが、この言葉はひとつの「夢(善意)」は隣の人の「夢(善意)」ではないということを言ってると思う。

「違い」を尊重しあって動くための調整を優先するか、事柄を進めることを優先するか。
それが新しい基準になっているように思う。

「ものごとを進める」ことを優先するのでなく、「人と人との調整」その空気感を創ることを優先する。その仕事自体の結果よりも「経過でなにが生まれるか」を重要視する。
プロジェクトは頓挫しても、そこまでにどういうコミュニケーションを築けるか。
そちらを優先する。

プロジェクトの目標に合わせてコミュニケーションを合わせていくのでなく、参加する人々それぞれの立場や状況に合わせて「プロジェクト自体」の方を変えていく。
そこが現代の「丁寧な仕事」とそうでない仕事をわけるのではないかと思う。
丁寧な仕事はいつか実を結ぶが、そうでないものは残念ながらいまの時代は実を結ばない。
結果を規定しないプロジェクトの方が不思議と結果的にうまくいくことが多いのはそういうわけだと思う。

丁寧さは(そのときにその仕事がうまくいかなくとも)形を変えて、どこかでかならず実を結ぶ。

「ワークショップ」的なやり方が出てきたたぶん20年ぐらい前は、ひとつの場でのそういうやり方「遊びのルールやその日の時間スケジュールを作らず、その場のみんなで楽しめる時間を創る」に注目した人たちがいろいろ実験をはじめていたのだと思う。それを「単にゆるいやり方」と軽く見てしまっていた人もたくさんいたと思うが(笑)。でもそれこそやってみたらすぐわかることだが、むしろ絶えなる繊細さ、といったものが求められる。子供のハートを持ちながら、最大限の大人の気配りができる、、という能力が必要とされる。僕自身もワークショップの世界で尊敬できるアーティストにたくさん会うことができた。
しかしその後ワークショップの世界も、その根底にずいぶん「言語化できる目標」のようなものを漠然とにしろなんとなく共有しはじめてしまったなぁ、と感じ始めてから久しい。そういう意味で本来の意味でのパワーを失っているのかなぁ、、と思ったりすることが多い。
「ワークショップ」ということ自体が規定された仕事のようになってしまった。

遊んでばかりいる、ということは実はほめ言葉である。結果を規定しないことで人との関係を丁寧に創っていける。それがいつか実を結ぶ。そういうやり方を次々と新しいことでやっていく必要がある。

「目に見えるもの」「言葉で認識できるもの」をみんなで創る、という時代がもう終わっているのだ、と思う。
必要なのは「自分の価値観やプロジェクトの目標からではなく、個々の人や場所の立場から全体をゆっくりじっくり見渡せること」だ。

そして、それはいわゆる「仕事」の進め方だけでなく、「音楽」や「場所」の空気の作り方でも同じことが言えると思う。

レゲエは他のジャンルの凄腕のミュージシャンが、「とても単純ですぐできる音楽」と思いやすい。が、以前いた凄腕のジャズの黒人ミュージシャンが僕に話したことがある。
<レゲエをはじめてみたら、あんなに簡単に見える裏打ち(「ん、チャ、ん、チャ」)を続けることがあまりにも難しくてびっくりした。ずっと同じことを続けるだけなのにどうしても途中で間違える。それがすごく不思議だった。できるようになるまでものすごく時間がかかった>
と言っていた。レゲエはそういう風にできている。まわりとの関係を頭でなく体で感じ続けていられないと間違えるようにできている。そこがおもしろい。
頭だけで理解しても体がついていかないようにできている。ある意味とてもトリッキーな構造だ。なめてかかると足をすくわれる。しかしレゲエはもし楽譜にしてしまったら(一見)とても単純だ。でもやってみると、すごく難しい。演奏しにくいところに大事なポイントがある。
大事なことはコミュニケーションの繊細さとその場その場の判断、そして何よりも他の音へのリスペクトだ。それを繰り返す中でできあがった構造がそこにある。
レゲエのビートは「ハートビート」と呼ばれる。心臓の鼓動だ。
そして、レゲエのキーワードは、「インディペンデント」と「リスペクト」である。それぞれが自立していながら、相手を尊重する関係の作り方。そのエッセンスの塊のような音楽がレゲエだ。新しい時代を切り開いてきた音楽。ハウスでもヒップホップでも新しい時代を切り開いた音楽の元にはレゲエが作り出した「ループ」という概念がある。そこがまだ本当には世界に向けてきちんと説明されてないように感じることが多い。
ぼくはたいしたレゲエのミュージシャンではないが、ほんとうにすごいレゲエのミュージシャンの凄さは、いままでのミュージシャンの評価基準では測れないところにある。つまり「構造の複雑さや曲として達成したことの凄さ」に価値をおいていない、というところに本来の「演奏の凄み」があるのだ。もともと演奏というのはレゲエに限らずそういうものなのだろうと思うけど、他のジャンルでは「曲」や「なにかを達成すること」というものを尊重するあまりそういう部分が失われている場合も多かったのではないかと思う。僕がきらいなミュージシャンはそういうタイプの人が多い。「なにかすごいことを達成している。しかしそれがなんなんだろう?」と思わせてしまうタイプのミュージシャン(笑)。
音から出てくる本当の意味での「あたたかさ」や「燃えたぎるようなパワー」というのはそういうのとは異なる「一見地味だが、実は緻密なまわりとの関係性」から出てくる。決して「パワーからパワーが出てくる」のではない。レゲエの燃えたぎるような人を躍らせる力は、「瞬間瞬間への繊細さ」から生まれる。
尊敬できるミュージシャンはみなそういうものを持っている。

「言葉にできる夢や目標」をもって「みんなでなにかしらすごい未来を作る」ということはすでに時代の指針ではないのじゃないかと思う。僕にはそのようなやり方はすべて失敗してきたように見える。
大きな未来のために現在のなにか(特に個々の人それぞれの状況や立場)を犠牲にする時代はすでに終わっている。そこにみんなが気づき始めている。

大事なのは現在である。現在、関わっている人すべてへのリスペクトがあるかないか。それがすでに新しい世代の標準となっている。
どこかでみんなが気づきはじめている。ニュースタンダード。

今この瞬間に「ない」ものは明日もない。
プロセスに存在しないリスペクトは仕事が実現されたときに浮かばれるわけではないのだ。

月を指す指は月ではない。

2017.6

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今の時代の「ニュースタンダード」と言えるべきものについて、文章を書いてみた。こういうことはあたりまえにやってる人たちにとってはいまさらなことだし、こういうことを言葉で説明すること自体もどうなのかな、とちょっと自分で首をかしげつつも、たまには書く必要があるのかな、と思った。じゃないと、いろんな現場や仕事に関して「ほんわかしてていいですね」ですべてを片付けられてしまったりするので(笑)そういう風に言われるときは2種類あって、ほんとにいいなぁ、と思ってもらえている場合と、「そのやり方ゆるいんじゃないの?」という気持ちの裏返しの場合がある。後者の場合に関して、僕はいつも思うのだ。じゃあピリピリしてるとどうだというのだろう?(笑)それでよい結果は出ただろうか?
まだどこかで「ぎりぎりまでなにかをやる」とか、「ピリピリしている」のが仕事だと思ってる人というのもまだいるのだな。。とそのたびに気づく。
まぁだいたいそんなわけで、こんな文章を書いてみました。
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2017-06-06 | Posted in EssayNo Comments » 

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