演奏の録音や録画・Aという子の絵の話・水の影

録音物や映像に関して最近いくつか疲れるやりとりがあった。ある種のことは、文章を書くことでしかいやされないのかな、と思うことがある。そういう「疲れ」のようなものは、社会的なことと、自分個人の心の中にあることとの中間に位置しているのかな、とよく思う。
自分の中でよく説明できない思いがずっとあって、たとえば、誰かがぼくの姿をスマホで撮影してその場でSNSにアップする、それがとても楽しい一場面に思えることもあれば、「え?なんで?」と思って少しだけ心のどこかが傷つくこともある。そんなことからこの文章を切り出したらうまく伝わるのかな、と思う。みんなほんとうは少しずつそういうことがあるんじゃないかな、と思っている。
自分の姿に関してもそうなのだけれど、今日書きたいのは、演奏の録音や録画の話についてだ。
最近二つの録音物や映像に関するやりとりがあった。
ひとつは、ライブの録音をそのパーティーに来ていた人たちに配りたいので録音データをもらえませんか、という話だった。
もうひとつは、自分のライブの録画データをくださいとお願いしたときに、Youtubeの限定公開でアップをしたもののリンクが送られてきた、ということだった。

うーん・・・

両方に関して、ぼくは説明にとても苦労をした。
どこに苦労したかというと、どんな風にお話しても、自分の中の言葉が相手に伝わる段階で「権利(相手にとっては義務)」の話になってしまうことだ。録音の所有権、もしくは、映像の肖像権。そういう話になってしまう。
でもぼくが自分の心の中で訴えているのはそういうことと違う。むしろデリカシーの問題だ。
実際のところ今回の二つの件で、ぼくのライブのデータがなにかの商売になったりする、と考えているわけではないし、それを阻止しようとか、勝手に使うなとか、そういうことでもない。
むしろ、ぼくが訴えたかったことの核心は、
「それを僕が訴えなくてはいけないのだろうか」
という部分の話だった。
だが、結局そこは、ほとんど伝わることはなかったように思う。

世の中では、そういうことは特に気にすることではなくなっているのだな、というのを痛感した。

それが、どんなことなのかを書けるだけ書いてみたいな、と思った。文章という形で。

主人公の名前を何にしたらよいだろう。文章というのはそういうところが難しい。ぼくは文章家でないから、そういうところが少しまだるっこしい。とりあえず、Aとしてみた。
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Aは今日はじめて絵を書いてみた。
絵を書くなんていうのは特にすごいことではない。幼稚園のときから、そして小学校に入ってからも、「自由に絵を描いてください」という時間があった。いわゆるお絵かきの時間だ。
もちろんそういうお絵かきの時間に、Aもいつも絵を描いていた。でも、うまく言えないのだけど、自分で書いていた、というよりは、なにか「書かなければいけないものを、つきあいで書いていた」という感じだった。赤いクレヨンを手にとる。丸を描いて太陽にする。黒いクレヨンを手にとる。人の形らしきものになるように書く。それは、とくに難しいことではなかったが、なんだかすごく悪いことをしているような気がした。でも書きたいな、という気持ちが出てくる前に書くことになってしまったのだから何か書かなければいけなかったのだ。しょうがない、と自分ではいいわけしていた。
でもそんな風に絵を描くようになってしまってから、美術の時間というのは、Aにとってどこかいつも変な罪悪感のようなものを感じる時間になってしまっていた。算数のテストでわかりもしない問題に適当な答えを書いているときにはそんなにその罪悪感を感じることはなかったが、どうしてかクレヨンを自分がなにかに合わせて動かしているときのその感覚はとてもなにか大事なものを傷つけているような、不思議な感じがした。私は誰に申し訳なく思ってるのだろう?
でも今日は違った。
ベランダのところに猫のピーがおっかなびっくりあがっているところを見ているうちに、なんだか無性にそのうしろすがたを自分でなぞってみたくなったのだ。
家でひとりでいる時間だったし、誰が見ているわけでもないのに、いつも美術の時間に使っているクレヨンを出してきて紙に何かを書いてみるというのは、なんだかすごく勇気のいることだった。そんなことしちゃっていいんだろうか?
でも、それよりもピーの姿と、そのおしりのあたりにほんのりとあたっているお日様の光をみてたら、どうしてだか一刻も早くそれを描かないといけない、今を逃してはいけない、そんな気がして、畳の上に学校で使っているスケッチブックとクレヨンを出してきて、Aは思い切りよく、黒いクレヨンを紙になすりつけてみた。
美術の時間には感じたことのないようなどきどき感がそこにはあった。もちろんそんなにピーに似ているように描けるわけでもないのだけど、ピーのおしりにあたっているキラキラしている光を見ながら、なんかそれを写せるわけもないのに一生懸命紙の上のクレヨンを動かしてみてると、自分が不思議なことに「やらなければならないことをしている」という気持ちになった。こんな風に思ったことはなかった。
それは絵の上手いクラスの他の子に自分が勝手に憧れていたような、ロマンチックな感じの作業ではなかった。もっとある意味大切で真面目な作業だった。
あぁ、そうかピーは黒猫なのに、おしりのところにこんな斑点があったんだよな、とか、ピーの毛先にお日様の光がきらきらとあたって、なんだか空気中にふわふわ光線が出てるみたいだ、、とか、いろんな発見があり、同時にいろんなことが頭の中をすごい速さで駆け巡って、すごく集中しているうちに時間がすぎた。
ピーはしばらくベランダで動く虫を見つめてじっとしてたけれど、しばらくすると部屋の方に戻ってきてしまった。
「ピー!じっとしてて」といってピーをおっかけた。
今度は座り込んで自分の足をぺろぺろなめているピーを描こうとしてみたり、ピーをうしろ向けにさせてもう一度さっき書いたおしりの絵の続きを描こうとしたりしていたが、そのうちに、あったかいお日様の中でAは思わずごろんと横になってしまった。
天井を見つめた。
「あー、きれいだなぁ」と思わずAはつぶやいた。それが、いま天井にきらきらとうつっているお日様のことなのか、さっきみたピーのおしりのことなのか、なんなのかわからなかったがそんな言葉が自分の口からついてでてきた。ちょっと涙が出て来そうだった。
よしっと思って、もう一回うつぶせになって、スケッチブックをとって、こんどは自分が思うなにかすてきな絵を書きたいな、と思った。なんだかとても幸せな気持ちだった。
しばらくいろんなことを考えていた。

ふと目が醒めると、もうあたりが薄暗くなっていた。
Aはうつぶせになったまま、開いたスケッチブックに手を乗せたまま寝てしまっていたのだ。
自分の横にちらばっているクレヨンを片付けて、1階に行こうと思った。スケッチブックは自分の机の横にしまった。一瞬、もしかして、この絵を誰かに見られたかな、ということが頭をよぎった。でもたぶん大丈夫だろう。

下で、家族の声がしている。みんな帰ってきたんだ。

下におりていくと、お父さんお母さん、となりの離れにすんでいるAのおばあちゃん、そして弟も集まって何やら3人でがやがやと話をしている。なんだろう。
居間のドアを開けると、みんなが話している。
「いや、すごいねぇ」
「上手だねぇ」
上手?Aはドキッとした。
「上手、上手!」それはいつも美術の先生が言うほめことばだ。

「あぁ、起きて来た、起きて来た。」

お母さんが、Aを見て
「起きたのね、いまみんなであんたの書いた絵を見てたんだよ」と言う。
「え?」
テーブルの上のライトが少し暗くなったような気がした。
絵は上にちゃんとあったのにどうして!
お父さんもニコニコしている。ふとみると、お父さんはおっきなiPadを持っている。
まさか、、と思ったが、そこには自分の書いたピーの絵が大きく写っていた。
<Aのピーの絵>という見出しまでついている。なんだか飾ったようなピンクの文字だ。
「おまえが乗っかっててスケッチブックが抜けなかったから、写真を撮っておいたんだよ」
お父さんはニコニコとして言った。
みんなでそれを回して見ていたのだ。
いろんなことをみんなで話しながら。
「お父さんのFacebookにもあげたら、会社の人がすごいおもしろい絵だ、才能があるってコメントしてたんだぞ」

Aはなにをどう言えばいいかわからなくなって
「ひどい!」
と叫んだ。自分でもびっくりするくらい、涙があっという間に出て来た。
まだ自分でもゆっくり見てないのに。
はじめて描いたピーの絵。

「ひどい!!」
もう一度あらん限りの声で叫んだ。
でも、お父さんもお父さんもおばあちゃんも、大声で笑いだした。
「あらあら、どうしたのこの子は」
「かわいいわねぇ」
「いいじゃないの、上手よ、上手に描けてるわよ。大丈夫よ。」

(なにがいったい大丈夫なんだろう?上手だと大丈夫なんだろうか?)

それを聞いて、泣いてひくひくしていたAのおなかのあたりが、驚くほどぴたっと静まりかえった。
泣いている自分の声はまだ聞こえたいたが、体の芯のあたりがとても静かになってしまった。
こころの中の本当に深いところであることに気づいた。

あぁ、ほんとうに、ほんとうにこの人たちは私がなんで泣いているのかわからないんだ。

大丈夫?大丈夫ってなんだろう。

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おしまい。

ぼくが演奏の録音とか録画に関していつも思うことは、とても簡単なことです。

「できれば録音したり、録画するなら、そのことを自分が知っていたい」
そしてできあがったら、
「まずは自分だけで(もしくは一緒に演奏した人たちだけで、できればいっしょに)じっくり見たい・聴きたい」
そして
「しばらくは、(それを公開するとか、だれかに渡すとか、商売にする、とかじゃなくて)ただ、そっとしておいてほしい」

というそれだけのことです。
しかし、驚くことに、ぼくからすると、「ものを創る人」ならみんなそう思うんじゃないかな、というたったこれだけのことが、ものすごく伝えるのが難しい場合があります。

これはまったく権利の話ではないのです。

自分の気持ちから出て来たばかりの「はだかの恥ずかしいもの」を、こっそり人に見せている、見てもらっている、という感覚は昔のものになってしまったのだろうか。そういう感覚がなくなってもアーティストなんだろうか?

自分の作ったものの複製(録画や録音を)をすると言うこと自体が、かなり暴力的なことだ、というのはほとんど忘れ去られてしまっている。
そして、作った人にとって
「それを自分にください。そしてしばらくそっとしておいてください」
と、声に出さないといけないということ、
そのこと自体が、実は一番傷つくことだ。

「言わなくてもわかってもらえる」ということでしか、報われない気持ち、というものが実際にこの世の中にはある。
そして、それはたぶん世の流れには乗っていない。でもとても大事なものだ。
アーティスト(それが職業でなくとも)はそこを扱っている、と思っている。

ぼくはそういうふうに思ってるが、もちろん、そうは、思っていない人もいる。
アーティストは商業世界の中で、世の中の座標軸の中での自分の位置をはっきり説明できる人、という説明をしていた人の講座を見たこともあるから、考え方はほんとに人それぞれだ。

ユーミンの「水の影」という曲の歌詞に

<よどみない浮世の流れ とびこめぬ弱さ責めつつ けれど傷つく心を持ち続けたい>

という一節があった。

僕は、傷つきやすい人と仕事をしたい。そう思う。
傷つきやすく、それでいて、それを怖がらず、そのまま出す勇気のある人と仕事がしたい。
と思います。
それは、<傷つくこと>を忘れてしまうこととは正反対のこと、と思います。

そして、その傷つきやすさ、をそのまま出していくのは、もちろん「本人」であるべきだと思う。
そして最も大事なことは、「出していかない」ことも大事なことだと思います。
<発表>や<共有>だけがアートではない。
もっと大事なことがある。それはぼくがアートの一番本質ではないかと思っている部分の話です。

ワークショップで、本人が楽器に自分で触れはじめる、ということを一番大事にしているのも、僕の中では同じことです。

2018.2.13

2018-02-13 | Posted in EssayNo Comments » 

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