アートは感性? 現場の大切さ。

アートは感性、という言葉を耳にする。それ自体すごく間違ったことではないのかもしれないが、それとともにアーティストは「よくわからない、言葉にできないことを、何となくやる」人たち、とか、「言語では突き抜けられない壁をどーんと感性でつきぬけることのできる」人たち、とかそんなことが当たり前のように言われる時には、すごく深い疑問を感じることがよくある。

アートと呼ばれるようなことを専門としている人で、ある程度真面目に長い時間をかけてきた人ならみな納得してくれることじゃないのかと思うのだけれど、アートは「言語にして説明するよりもっと微細な出来事に関する哲学であったり学問であったりする」と僕自身は思っている。そしてそれは別にアートに限らないと思う。
それについてはまた別の文章を書こうと思うけれど、世の中には「言語にならないことについて言語で発言してはならない」とか「言語で説明できないことは、ない、としなければならない」と思っている人もいる。そういう考え方は特に僕が育った時代には「まだ」主流をしめていたし、僕自身もなんどもそういうまやかしのような「言語優越主義」の詐欺のような罠に引っかかってしまったことがあった。

しかし、実際のところ人間の日常のほとんどの瞬間は、言語になる以前の判断や言語による判断があい混ざって色々に動いている。それがは当たり前の状態であって、だからと言って「はっきり言語にしないこと」は全て「非論理」である、とするのは大きな間違いである。

音楽家はもちろんドレミを使ったり、リズムを使ったり、楽器を使ったりするのだが、それは、経済学者がペンを使ったりPCを使ったりお金に関する計算をするのと同じく、それが主題ではない。
音楽に長い間従事している人に当たり前のようにある一番重要な感覚は例えば「同じ空間にいるというのはどういうことか」「音を出す責任とはどういうことか」といった少々哲学のようなことに近いテーマである。そこまでいってないでプロになっている音楽家は正直あまり周りに見たことがない。
ある程度真面目に長い間それをやってきた経済学者なら「人間にとって経済って何だろう?」という疑問にどこかでぶつからざるをえないのと全く同じであって、音楽家も少なくとも僕のまわりにいるある程度長い間音楽をやってきた音楽家はみな「音とは何か、同じ空間にいて音を出すとはどういうことか」ということを、長い間真剣に考えている。そこらへんのちょっと音楽に関する知識だけかじっただけのような人なんかよりよっぽど考えている。それは音楽ジャンルを問わず、クラシックだろうがポップスだろうがジャズだろうが、プロになっている人はみんなそうだ。だからこそある程度の年になるとジャンルを超えてそういう話がお互いにできて楽しい。
そしてそれは決して抽象的で曖昧なイメージの話などではなくて、音の周波数についてだったり、音を出す時の人の身体や呼吸についてだったり、物の振動についてだったり、そういう具体的なことの話だ。
ところが、音楽家以外の人で、いきなり「いいですね。感性でお仕事できて」というようなことを言ったりする人がいる(笑)なんて想像力がないのだろう。
その人が経験してきているものすごい数の具体的な体験や検証の蓄積が、その人の存在として「思想」としてそこにある、ということになぜ気づかないのだろう、とよく首をかしげる。
言語にならない全ての人の微細な生活の全てが先にあって、それに興味を持って言語化(グルーピング)するのが本当の研究である。言語が先に立ってしまってはそれはただのアジテーション(演説)である。

経済学者に向かって、「あなたはお金のことについてだけ考えているから社会のことについてはわからないですよね?」というのがとても失礼なように、アーティストに「あなたは言語にならない感覚のことをやっているのですよね」というのはとても失礼なのは当たり前のことである。アーティストに限らない。感性だけでする仕事なんかどこにもない。
全ての人が、感性と言語の総力を結集して自分の仕事をしている、そんなことは当たり前のことで、それこそまともな感性があれば(笑)そんなことはすぐわかる。
黙って1日中仕事している人もみんなすごく具体的に色々考えている。僕は音楽家のことしかわからないが、音楽家なら、周波数。物の振動。人間の社会的関係。空間配置についてなどなど、そういうことを日々考えている。何十年も。
それはどんな仕事だってそんなもんだろう。
一日中言葉を使わなくとも、一日中向かっている物事に関して真面目に考えてたら、そこから派生して考えざるをえないことはいくらでもあるし、それはとどのつまり社会についてのことに「否が応でもぶつかっていく」のは当たり前のことである。そして「実際ものに向かっている」というのは言語を言語として扱っている以上に知性的な作業である。身体はそんなに愚鈍な知性ではない。

にも関わらず、言語にしない人には言語はないと思ってるような人がいる。しゃべるとすぐわかる。どっか少しばかにしてるから(笑)。頭悪いなぁ、と思ってしまう。その人自身がまだ「言語」に頼っていて、自分の思想というのに行き着くまでいろいろな物事のしがらみに揉まれてないのだろうと思う。
言語は結果であってそこがゲームではないということに気づいていない。そういうのを本当のバカという。頭の悪さは、「頭の動きの悪さ」ではなく「どれだけ言葉にしばられているか」だ。だから、往々にして愚鈍な人より、よく喋る人の方が本当に頭が悪かったりする。
頭の良さはそういう意味で「まともな生活感覚があるかどうか」なんじゃないかと思う。そういう意味で尊敬できる人がたくさんいる。すごく物事が見えている人というのは世の中にはたくさんいる。僕は割とすぐとらわれる方なのでよくそういう人たちに救われている。

しかしそういうまともな生活感覚がない、というのもそれはそれでとても不幸なことだ。
自分の頭で考えざるを得ない「自由」でなおかつある程度リスクがある現場が身の回りにない、揉まれる必要がない、というのも逆に大変だなと思う。

実際に人に触れ、ものに触れる「現場」というのは本当に大切で貴重だ。
苦労した分だけは必ず何かが実りとして帰ってくる。

2018-04-02 | Posted in Essay, WritingNo Comments » 

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