おまえは司会者じゃないよね・・。メディアは危険な遊具。橋本治さん追悼。

もうすでにいい歳だから、自分がどうしてもいらだってしまう、腹が立ってしまう、ということは減ってきた。とくに、「理由がわからないのに、、、」という場合はとても少なくなってきた。たとえば、タクシーの運転手さんが明らかに態度が悪いとか、そういう場合は別として、「どうして俺はこれに腹が立ってしまうのだろう」とわからないまま、なんとなくムカッとしてしまう、ということはほとんどなくなってきた(笑)
しかし、最近、ようやく、あぁ自分はこれにムカついてたのか、、とやっと言葉になったことがあるので書いてみようと思う。

腹がたつというのは、どこかで少し嫉妬しているような場合もあって、今回はそんな話だ。
どうも、話をしている相手が、「自分じゃないものに話してるみたいだ、、」という時に、ひとは一抹のさびしさを覚えたりするが、その相手が誰なのかわからない、となるとイラっとしてしまう、という話。そうとう個人的な話だな。

そして、ついに最近、ふいに気づいたのだが、やはり世の中には、「社会には一般解がある」とずっと思っている人がいる、ということだ。そして、それをいろんなメディア(テレビであったり、Youtubeであったり、ツイッターであったり、本であったり、、)に求めている人というのもいるのだ。
そして、思った以上に、私生活で直接人とあってても、そういうメディアに(と?)しゃべってる感覚を悪気なくもちこんじゃってる人もいるのだな、と気づいた。
もちろん、そういうメディアを見てはいます、でも俺は俺、という人もいるが、中には、「常に、そういうものの最先端を自分も追い求めたいと思ってる」人や、「そういうメディアでちょっと目立ったみたい?」と思っていて、四六時中をそのことを考えている人、というのもいる、ということにふいに気が付いた。
メディアの住人。

しばしば、お話をしていて、「なんかこの人は俺と話しているというよりは、なにかに向けてこれを言ってるよな、、」と思うことは誰しもあると思うが、
①この人は実は自分に対してこれを言ってるんだな(独り言かな・・?)
とか、
②あぁ、この人は実は自分の親に対してこれを言ってるんだな、、
とか、
③④⑤・・・ 同様に、友達に(彼氏に、奥さんに)言ってるんだな、、
というようなことはたまにある。
そういうときもちょっとした、あれ?という感じはあっても、「なるほどなぁ、わかるなぁ、、」という風にこちらの気持ちも「理解」でおさまる。

しかし、これはあくまでも自分の場合、なのだが、何度話しても
「???おまえ、それ誰にいってるの?」
っていう変な違和感を感じてしまう相手、というのがいて、
最近、それが、急にガーンとひょっとして?そういうこと?とわかってしまったのは、

僕の言葉でいうと
「テレビか雑誌かネットかなにかの、司会者か、企画者」のつもりで「いつも」プライベートを過ごしている人もいるのだな・・
ということにふいに気がついた。
そこまで自覚していなくとも、あの記事についてはこう思った、あの番組についてはこう思った、こうなんだ、こうなんだ・・という考えがたまってて、

たとえば、

「俺はこう思うんだよね。。」とこちらが、言ったときに
相手が
「いや、そういう考え方もあるけど、それだけだと違うんだよな・・(と宙を見つめる)」
なんて感じに返してきたりする。
そういう場合、
「あぁ、この人の中でなにか熟成された考えについて思いをめぐらせているんだな・・」
と思えるときもあるが、そうではなく、
もっと具体的ななにかに向けてしゃべっている?という感じがあきらかにわかるが、それが誰かがわからない、、という場合があって、
「???なに?なに?なにに向けてしゃべってんの?」
みたいに感じてしまうときに、イラっとさせられたりしてたことがちょいちょいあったのだ。

ようやく、わかった、
あぁ、おまえ、自分のことを司会者とか企画者と思ってたのか、、
と思ったらすごい腑に落ちた。

「世の中はそうじゃないんだよな・・(俺はわかってるけど)」みたいなことが常に頭の中にあるのかもしれない。

うまく表現できてるだろうか。
つまり「メディア」をもとに、社会の「トレンド」のようなものを考え、それを「社会性」だと勘違いしていて、友達関係にもそれをもちこむ、、、という人がいるのだな、ということだ。

ぼくは、基本的にそういうのは実はまったく社会性とは違うものだと思う。
誰にでも言われてるようなことを、不器用に自分の声でとつとつと語る人のほうがよっぽど社会性がある。
メディアの一般解があると想定して語る・・それにはどこかとてもよくないものが含まれている気がする。
なにか名誉欲みたいなものとつながっているのかもしれないし、もしかしたら根っこにはかなりファシスト的な志向があるかもしれない。

私が一番輝きたい、私が一番わかっている、というような。

そういうへんな大人のような子供のような人にならないために、こどもたちにはおおいに音楽とかしてほしい。同じ「ド」の音を出しても、すべての人がすべての楽器が、すべてのその日の空気が違う音を出すということを肌で感じてほしい。
それが音楽ではわかっても、言葉では、すぐに「こっちのことをあっちのこととくっつけたがる」のが人の常だが、せめて、生身の人との経験にくっつけてほしいと思う。
大人になって、活字やブラウン管や液晶に映っていることと、生身の人との違いが感じられてない人はちょっとどうなのかなぁ、、と思ってしまう。

昨日、「本質的な、三人称というものはない」「あなたと、私、という一人称、二人称が基本」というようなことを(表現は違ったかもしれませんが、、)おっしゃっていた橋本治さんがお亡くなりになったとのこと。
橋本さんのいうことに僕は深く賛成します。
活字文化ももっと橋本治さんの言っていたように、「どこかに三人称がいるような」書き方をやめれば、もう少し生身に近い伝わりかたをするのかもしれないん。

目の前の人(や猫や植物)とちゃんと話せないうちに、「世の中」も「トレンド」もへちまもあるもんか。そんなこどもっぽさには、一ミリも魅力を感じない。
ちゃんと生身のまわりの人と触れ合える大人になってから考えればいいことだ、そんなものは。
ちゃんと、というと語弊があるかもしれない。ちゃんと、というのはつまり、きちんと、ということではなくて、自分なりに(素直に)ということだ。ひどい自分やよくわからない自分、実は説明がつかない自分を出せる相手を経験してそれぞれ人はみんな大人になるのであって、正解を知った人だけが大人になるのではない。競争じゃないってこと。
ほんとにメディアは子供にとってつくづく危険な遊具になるうるのだなと思う。

2019.1.30

 

2019-01-30 | Posted in EssayNo Comments » 

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