ワークショップの目的は何か?

ここ半年くらい、自分としては珍しく、音楽ワークショップについて「しゃべる」ということに前向きに取り組んでみた。
そして、もっとも感じたことを、結論として、一口でいってしまうと、
音楽ワークショップの「評価」や「基準」を作ろうとしているムーブメントが高まっている中で
「なぜ、この活動は、音楽療法と違うのか」
ということがきちんとわかった上で、物事を論じられている人が非常に少ない、ということだ。

つまり、音楽ワークショップが、なぜ「ワークショップ」であって、「療法」ではないのか、
ということの最も重要な部分、つまり
アートはなにか明確な結果を出すものなのだろうか?
ということについて、少なくとも真摯な疑問を持って考えている人が
ほんとうに一握りしかいない、ということを感想に思った。

「価値基準」・・はてなんの価値を作ろうとしているのだろうか?
ということをこの半年になんどとなく思った。

それを本当にまじめに尋ねたときに、きちんと論議できる場がほんとうにあるならばそれでよいのだが、
「仕事だから」ということであったらとても怖い。

もちろん、ワークショップが「結果」としてなにかに「機能」する部分はある。それは事実だ。
そして、もちろん(今回自分はそれに取り組んだつもりなのだが)音楽の場を楽しく作っていくための要素をインデックス化して
人々が使いやすくすることや、その結果人々に起こることをこれまたインデックス化することももちろん部分的にはできると思う。

しかし、それでもなお、「で、なにをやろうとしているのか、アートは」というところを真剣に話し合うことができる場が育たなかったら
ワークショップの現場は、なにか非常に陳腐なものに陥ってしまうのではないのか、、という危惧を深く感じた。

いま一番足りないのは、「芸術作品としての批評」のようなものなのではないだろうか。

アーティストがあり、その価値や効果を認める人がいる、
その二者が、ひっぱりあうのでなく、仲良く語り合ってしまっていてよいのか。
よいわけはない。と僕は思う。
その間に、「芸術はどうあるべきか」というある意味宗教学に近いような強い批評的な気持ちがなかったら
すべては、「なにかのため」にすごく弱いものになっていくだろう。

アーティストは、生き抜くために、評価を求め、
評価するためは、仕事をするために、アーティストを求める。
それほど不幸な関係はない。

実際のところ、アートの効果、を、アーティストが論じるようになってしまっている
昨今の風潮を見ていると、
これは、ある意味、末期的だ、と感じてしまうことが多い。

大学3回生のときに、美学とか芸術学などという学問があることがある意味恐ろしくて、その学部を専攻した。
というのはいいわけで、演奏がしたかったのに一般大学に入ってしまったから行くところがなかっただけ、というのも本当のところで
だから専攻したもののほとんど勉強しなかった。
ただ、ひとつだけ、美学の教授が言っていたことで、ずっと覚えていることがある。
その教授は、こう言ったのだ。
「美学(芸術学)は、芸術を説明するためでなく、芸術にしかできないことを守るために言葉を使うのです」
と言っていた。

芸術を守るための言葉
そのことを最近非常によく思い出す。

その当時は、芸術はそんな素晴らしいものなのかな?ぐらいに思っていた。

しかしいまになってみるととてもよくわかる。
それは芸術を守る、ということというよりは、
「言葉にならない命」については、言葉にしない、という謙虚さ、いや、気持ちの謙虚さではなく、むしろ
<懸命さ>
のことを言っているのだと思う。

ワークショップを論じようとするとき、
<説明しようとしているのか、それとも、何かを守ろうとしているのか>
それによって、そのスタンスは大きく異なることになる。

何かを説明していくことは、その対象を破壊していくことにもなる。
そういう分野もある。ということを
この半年くらい自分なりに大声で伝えようとしてみていた。

「鈴木さんはアーティストですから、言葉で言えないことをやっているわけで、、」というセリフを何度も聞いた。

それを聞くたびに、なんとなくむしろとても不安をおぼえる。
アートは言葉で言えないことをやっている、そして、アーティスト以外は言葉で言えることをやっている
ということになってほしくない。

私たちは、もともと、言葉でいえる存在ではないのだ。
それを思い出さなくてよいのだろうか?

一方、アーティスト側はアーティスト側で、
「だから、言葉で説明してもだめなんですよ。作品で示さなきゃ」ということになったりする。

しかし、果たしてほんとうにそうなのだろうか?

もっととても簡単なことを、両側から

説明できる vs 言葉で言えないこともある

と言っていてもしょうがない。

ただ、お互いに
「言葉でいえないことがあります。だから、言葉で言えることを話しましょう」

と一緒に外堀を埋めていくことができるはずなのだ。
たぶん、それが、一番な懸命な道なのだと思う。

ただ、それは、そのことをうやむやにして
「まるでなにかが、うまく言える」と思って話し合うこととはまるで違うことだ。

2019.4.11

2019-04-11 | Posted in 未分類No Comments » 

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