右と左、日本と韓国

右と左で悪口を言い合う人たち。
日本だ!韓国だ!と悪口を言い合う人たち。

その人らがほんとうに必死になってやりたい、やらなくちゃ、と思ってることは
「右と左」「日本と韓国」という考え方でなりたつ世の中を続けたい、
ということなんだろうなぁ、と思う。
そう思うとある意味切ない。
なぜなら世界はそっちに向かってはいないからだ。
それは生物的にそうなんだと思う。
でも逆らいたいんだろうな。
以前の価値観が溶けていってしまうのは怖いことだ。実は一番それを怖がっている。

それでも、もう多くの人が知っている。
埼玉と京都、でさえ空気は違う。空気が違えば、感じ方も違う、微妙な暮らし方も違う。
そうか、世界には、地域それぞれ、もっといえばそれぞれのうちの暮らしそれぞれの
異なる真実があるんだなぁ、それをリスペクトしあって共存していかなけりゃなぁ。

ビートルズから、レゲエから、ヒップホップから、マイケルジャクソンから、
とにかくポップスはそのことを歌ってきた。

たくさんの神様が仲良くする世界。
それをリードできるはずの文化をもっているはずのこの地域の人々が、
「日本は!」「韓国は!」と叫んでそちらに流されるとしたら
なんてもったいないことだろう。

このような話を聞いて、頭がお花畑呼ばわりするひとも
単に「生命」を恐れている人たちだ。
生命は理屈ではない。
割り切れる「力」での世界より、
溶けていく「説明できない生命」を信じることのほうが、
体験したことのない人にとっては恐ろしいことなのだ。

でも生物だからそこからは逃げようがない。
そこに信じれるものがある、というのは「言葉でいうとお花畑」だが
もっとある意味「冷たい事実」だ。
私たちは、日本人、ではない。
生き物、なのだ。

それをある種の音楽は歌っている。

僕らの50年以上の年月は無駄だったろうか?

前の戦争のときにだって、
「おかしいな」と思ってた人はいっぱいいただろう。
でも、声が大きい人が正しく見えてなにも言わなかった人がいっぱいいたんだろう。

今回は、そういう風にはいかないと思うんだよな。
つまり
反対するのでなくて、ほんとに感じてることを言おう!
そういう準備はしてきたんじゃないか。
踊ったり、歌ったり、感じたことをそのまま表現していい・・それは生命に気づくことだ。
僕らの50年は簡単に消せるものではない。

そう信じてみることもあるときには元気の素になる。

悲観的になってもエネルギーは出ないから。

母に
2019.8.27

2019-08-27 | Posted in Diary, Essay, WritingNo Comments » 

関連記事

Comment





Comment