ほんとうの君・ほんとうの僕

ほんとうのこと
2020.2.21

ほんとうのことを知りたい・・
その気持ちが連れていくところ

ほんとうのことはだいたいにおいて、言葉と言葉の間にある。
音楽をバンドで作るときもそうだし、ワークショップをするときも。そして人の評判とか人に対する評価とかもそうだと思う。
基本的に何か言葉にされることというのは、その言葉を使う人の意図なり価値観、いろいろな気持ちが含まれてしまっているので、正確な情報、というのはいたるところにありそうに見えて、実はそんなに単純に表面には現れていない。
それぞれの人がそれぞれ思ったことを言っている。

だいたいにおいて、人のことを言っているときは、人は自分の何かを語っている。

人間はもともとかなり「共感覚」を元に生活をしている動物だから、心のかなり奥の方のほうで、
「きっとあなたはこう思っているだろうから」
という判断をしてしまっていることが多い。
でも、実際は、それ自体も本人の「推測」だったりする。
お互いが「推測」を積み重ねて、誤解に誤解が重なっていくのが「共依存」のひとつの形だ。

そういうことばかりになっていくと、
徐々にどこにも「真実」を見ようとする人はいなくなり
「なんとなくあいつが悪者だ」とされる人が悪者になったり
「なんとなくあいつがいなければいいのだ」とされる人が攻撃されたり
反対に
「なんとなくあいつが素敵だ」とされる人だけがすごくもてはやされたりもする。

実はそれが全部「共同幻想」みたいなふわふわしたものに基づいてしまってたりする、
ということが基本的に起こっていることだと思う。

「それを断ち切れる人」というのがとても必要になる。
次の瞬間に、言葉を超えて、違うことができる人。
一度断ち切れる人。
そういう人を
ファンキー
と呼ぶのだと思っている・・・
と結局音楽の話になる(笑)

共同幻想とは別に、
実はほんとうの君・ほんとうの僕はそれとは違うところにちゃんと存在している。
常に。パラレルワールドだ。
音楽はそこを歌うものだ。と思っている。

韓氏意挙という拳法の講習会に行った時に、そういう練習をさせられた。
とてもおもしろかった。
無作為にいろんな方向に向かって歩きながら、意味なく違う方向にキュッと方向を変える訓練や
相手にもたれている自分の腕を、「相手に持たれている」ということを忘れて、ぐいっと動かす訓練。
これはとても難しい。でもおもしろい。
しかもどこかで知っている感じ。これは音楽の演奏でいい感じのときとよく似ている・・と思った。

頭の中で、常に相手の行動をどこかで無意識に予測して自分の動きに制御をかけている、、
それが人間の基本習性だということだ。
それはそれで、ある程度必要で大事なことであったりやさしさであったりもするのだろうけど
それが「無意識のまま」だと「リンゴをあげられるようにならないのだ」と中国から来た先生は教えてくれた。
自分にかけられている「スイッチ」に気づかないとリンゴをあげられない。

韓氏意挙の先生がこう言った。
「体の中のそういう関係性や反応がどう起こっているかに気づくこと、それがほんとうの意味での「整体」(体を整えること)だ。
それができるようにならなければ、本当の飢餓のときにとなりの人にひとつしかないリンゴをあげる、そんなことは決してできない。自分の意思ではできないのだ。」
スイッチがかけられたまま、制御がかけられたまま、自分の意思でなにかしているつもりになっても、それは全部「予測した相手」や「予測した社会」のために動いているだけになったりする。
それは「愛」には結びつかない。
「気づく」
それがスタートだ。

予測で歩かない。
自分の感覚で歩く。

「誰も君に期待などしていない。見ているのは君ひとりだ。君が愛することができるのだから。」
という少女漫画家森脇真末味のマンガの中の言葉があったっけ。
あのマンガのそのシーンだけはいまでもバイブルのようにその都度思い出す。

まずは「自分が自分で歩く」
そこから。常にそこから毎日練習をする。
音楽はまさにそういう作業だ。

かけられているスイッチを超えた瞬間がない音楽なんてどこがおもしろいだろう?
すでに知っているものを作るのは音楽ではない。

2020-02-21 | Posted in SentenceNo Comments » 

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