ほどほど妥当なモラル、というのは、ある。ちゃんとある。

なにが「正解か」でなく、なにが庶民の「安心か」を主張するのが当然にならなければいけない・・
という文章。

「批判する側は批判される側と同じ土俵にたってしまう」
とか「自分の中に同じ部分があるから相手に腹がたつのだ」と言った言われ方を前は気にしていたが、時間をかけて、それは間違っているなと確信した。
「暴力の連鎖」とは違う意味で「これは公にはだめ」と言うことは必要。静かにはっきり言う。

「そこそこ妥当なモラル」がちゃんとある。
一般の庶民が一番安心して暮らすために。
それを無視する政権も、<スピリチュアルに善とされる気持ちが一番大事>とする考え方も、どちらも極端な二項対立で、実はひとつの考え方しか言ってない。皆で共有できる妥当なモラルというのは「考え方」ではない。

それは長い歴史を経て培ってきたコモンセンス。
それを無視して、主張だけするのは、政権であろうと、反政権であろうと、ただの「思想フェチ」。
そんなもので私たちが暮らしてるわけではない。

生活に、対立項はない。
むしろ、どうやっていろんなものと共存するか、の知恵の結集だ。そこを維持するためのコモンセンスには、批判する方は相手と同じだ、という理屈はあたらない。
すべてを思想、で考えるのは無理がある。

思想でなく、主張べきことがある。

なにが「正解か」でなく、なにが庶民の「安心か」を主張するのが当然にならなければいけない・・

ほどほど妥当なモラル、というのは、ある。ちゃんとある。そこに頼って暮らしている。思想じゃない。

2020-06-12 | Posted in EssayNo Comments » 

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