どうしようもない先生

僕はそのとき変だな、と思うことがずいぶんあとになってようやくわかることとかが多いから、こういうブログでたまに文章にすることは自分にとって意味のあることだったりする。はたから読んでいると、「なんでそんな暗いことばっかり書くのだろう?」「愚痴ばっかり書いて・・」という感じもするかもしれないのだが、自分としては言葉になったときというのは、ずいぶん長い間の経験が熟成?されて、はっきりした結論のようなものにいたったときなので、どちらかというととってもすっきりさわやか、な状態のことが多い。

今日もピアノの練習をしていて、あぁ、そうか、と思ったことがあって書くことにした。
それは題名をつけるなら、「どうしようもない先生っているなぁ」ということだ。

なぜ急にそんなことを思ったかというと、最近ほんとうにピアノを弾くということはしゃべることに似ているなぁ、ということをよく思っているからなのだ。
そういえば、いろんな人が「この先生の前に行くとどうしてもいつものように弾けない」という経験をしているのではないか、ということを思った。
あぁ、あれはしゃべれなくなってる・・ということだ。

そこで急に思い出したのだが、これはピアノのレッスンではなくて、仕事の現場や学校なので、
上司、もしくは先生が、
「なんで何も言わないんだ!」とか怒っていて、前に立たされている部下もしくは生徒が何も言えずに、だまっている、という場面がよくある。
最近あるかどうかは知らないが、ぼくは人生でそういうのを何度となく見てきた。
そういうたびに思っていたことは、横から見ていると単に
「それはあんたがこわいからやろ」ということだ(笑)
そういうときは、だいたい黙らされている方が礼儀正しく、怒っている方の人間が理不尽に見えるし、実際その通りであるということが多い。
上司や先生であるということで、自分は怒ってもよいと思っている。
あんたがこわいからやろ、はもっと噛み砕いて言うと
「あんたが、聞いてやる気持ちがないからしゃべれへんのや」ということだ。
コミュニケーション能力がかけているのはたいてい怒っている方だ。
そして、怒っている理由もだいたい本人の内部の問題であることが多い。
なぜなら、なにかの問題点を人に伝える際に怒る必要などないからだ。

ここでぼくははっきりとひとつの大事なこと、に思い当たる。

「しゃべったり音を出したりする能力は出す方だけの能力だ」
という間違った認識は、これから50年100年の間にすっかり塗り替えられるだろうし、そうあるべきだな、ということだ。
本来、人が話をしたり音を出す、というのは「相互作用」なのである。
聞く気持ちがある人がいるから、しゃべる人がいるのだ。
両方で空間(空気)を作っている。
それがたとえステージとお客さんという間柄になったところでそれは変わらない。
ましてや。レッスンのようなせまい空間で行われることに、そういう「聞く側の気持ち」が影響しないわけはない、ということぐらい気づかない先生は果たして音楽家といえるだろうか。テクニックがあるのが音楽家ではない。

「相手がどんな風でも同じことが言える、または演奏できる」という能力は、深い意味でいうと、実は「ある能力が決定的にたりない」ことでもある。

「自分が理不尽に人を脅しておいて、相手が何も言えないと責める」
という、まるっきりコミュニケーション能力を欠いた上司や先生が、のうのうと生きてこれたこの世の中はまるで間違っている、と僕は思う。
そして、それとまったく同じことがレッスンでも頻繁に繰り返されている。
それはセクハラやパワハラを助長してきた社会構造とまったく同じものによりかかっている無意味で醜悪な文化だ。

はっきり言ってしまうと、
 「心を開いて聴こう」という気持ちのない(ときの)先生の前で、弾いてやる必要なんかないということだ(笑)まぁ、そういう先生でも心が開いてるときもあるのだろうけれど・・
 そういう先生は、自分の演奏だけにもう一度真摯に向かい合って、果たして自分の音がほんとうに人に届いているのか、もしくはそうでなくて自分はなにかの上にあぐらをかいているだけなのか、ということを考えなおしたほうがよいと思う。よい演奏家がよい先生とは限らないということはよく言われることだが、少なくとも教えるということをしている演奏家の場合、そのレッスンでそのような態度をしているときの先生の演奏はやはりステージであっても同じようにどこかに傲慢さが見え隠れする。それは端的にいうと「ほんとうの意味では音が聴けていない」ということだ。
 これは自分に対してもいましめのために書いておくけれど、人は経験を積んだり長年生きていると、
「自分の経験を言葉にしはじめる」という特徴がある。
そしてそこが落とし穴なのだ。
なぜか。
結局は、演奏家はもちろん、他の仕事でも人は「現場での対応力こそが命」だからだ。だから、どんなに経験を積もうと
「昨日の経験が今日の現場に使えるとは限らない」
というのだけが永遠の真実で、それ以上でもそれ以下でもない。
 それが、なにかをはじめたばかりの人間にも、経験豊富な年寄りにも、同じようにやってくる、というのだけが続いていく。死ぬまで。死ぬまで実は毎日が新しい体験なのだ。
 そこをきちんと知っているものは、どんなに自分の経験を理論化したり説明できるようになったところで、(それはそれで必要なことではあるが)「だから俺はえらい」とは思わないものだ。なぜかというと理論化はほんとうのところは人のためになるかどうかはなはだ疑問なところもあるからだ。なにかを理論化することで、なにかはぬけおちる。だから人に教えるというのはものすごく難しい作業だと思う。
 日々世の中は変わっていく。「もしかしたら自分の理論よりも時代の方が変わっているかもしれない」といういい意味での恐れを持つものは、別に経験が増えたところで、下のものに威張ったりはしない。しないのでなくて、「できない」はずなのだ。

 長い間、先生は生徒を緊張させるものであるのがあたりまえ、そして緊張しているときでも本領を発揮できなければほんものではない、というような、どうしようもなくゆがんだ考え方が世の中を狂わせてきた。
 先生が生徒にいばる。先輩が後輩にいばる。上司が部下にいばる。
 それははっきりいって実は内容とは関係がないところで行われている。
 もちろんある程度の礼儀は必要だから、なにも全部が対等、などと言っているのではない。しかし、残念ながら?そういう社会的な上下や序列は「そのためのもの」であって、それ以上のものではない。
 つまり、いばっている先生は、「内容があるからいばっている」のではない。
 「いばっているからいばっていられている」というとてもしょうもないことだ。
 いばっていようがいまいが、いいものはいいし、威張ってない方がよい。
 それだけのことだ。
 そしてほんとうに内容があるときに、人は威張る必要はない。
 いばりたかったり、たいくつだったり、なにか本人の気分でいばっているだけのことだ。

 だから若い方には特に伝えておきたいが、仕事やレッスンで
 「相手が機嫌が悪いのは相手のせいである」
 ということをほんとうに覚えておいてほしい。内容とは関係がない。

 生徒を緊張させるのはあたりまえ。そんな考え方が少しでもある先生は、はっきり言って
「どうしようもない先生だな」
と、いまははっきりわかる。
 そういう人は、どんなに楽器(だけ)がうまかろうと、どんな理屈をもっていようと、結局のところ、
「まちがった社会、まちがったコミュニケーションを広めようとしている」という点において、たいしたことはない存在になってしまっている。と思う。
音はそのくらいコミュニケーションと深くかかわっている。

 ただ、まちがった社会というのもそれなりに(というかけっこうメインで)続いていくものではあるから、その中で成功したい、という人はその目的でその先生についていくのはあり、だと思う。あり、というのはそういうのはぼくは認めてないし大嫌いだが、勝手にやったらいいと思う。そういうのを「派閥」という。
 仕事の派閥。それはどこにでもある。がまんするだけの得るものがあるなら我慢すればよい。それだけのことだ。音楽の内容とは関係がない。
 仕事を得るのが幸せに繋がるとは限らないし、いい音楽に繋がるとも限らないが、お金が必要なのも事実だからそのへんは一人一人が決めることだと思う。
 結局みんなが行く方に行かないほうが冒険は多いが、楽しいし、いい仲間が増えると僕は思うが、それは人によるのかなとも思う。
 ぼくは、せっかく音楽のようなことを選んでいるのだから、そんなまるで最近はやっているテレビドラマの銀行かなにかの派閥争いみたいな世界になんかいたくない、と思うが、音楽だって銀行と同じだ、そういうものも含んで俺はのし上るのだ、という人はそれを選べばよいと思う。

 ただ、、そういう権威とか派閥もある意味「文化」というかはっきり言ってしまうと「なんかの流行」にすがっているものではある。だから時代とともにやっぱり変わっていくものだな。と思う。長い時間をかけて。
 だから、それに気づきながらであればまだよいが、昔の権威にすがった感じの年寄りにならないためにはある程度そういう変化にも、気づいておいたほうがよいのかな、とは思う。おれは選んで派閥に入ったのだな、という認識。
 無意味な権威はいずれなにかに取って代わられる。取って代わられるべきだと思う。
 もちろんほんとにいいものは残るが。それはきっとコミュニケーションと関わることだろうと思う。そして、そのまわりにへばりついたへどみたいな「権威」はきれいに歴史に洗われてあとかたもなく消えていくだろう。 結局よしあしは人が決めるもので、機械や理屈が決めるものではないからだ。
 でもとにかく生きている間威張っていたい、ということもみたいな人もいるからそれはそれでしょうがないと思う。

 でも、ほんとうに素晴らしい音楽家や先生は、その人といるだけでどこか素晴らしい音楽の世界に連れていってくれる、、そういう経験を与えてくれるものだ。そういう人がいるよ、ということは書いておきたい。
 ほんとうの達人は舌を巻くほどすごい上に、すごみを感じさせないものだ。ほんとうにかっこいいし惚れる。
 不思議とその人と音を出しているだけで、もっといえば同じ空間にいるだけでなにかが学べる、、そういう人はいる。年齢に関わらず。
 ほんとうの厳しさはそういう「音楽的素晴らしさ」の内側に深く内在するものであって、表面にあからさまに出てくるきびしさなんていうのはだいたいまやかしであることが多く、たいしたことないもの、だと思う。

 もちろんずっと表面的にきびしい先生というのもめずらしく、ずっと表面的にきびしいけどたまに甘い・・というような変なあめとムチみたいな(笑)のを気分次第で行う先生が多いが、それも考えものだと思う。
 なぜかというと、100のうまくいったコミュニケーションより、1の怖かったコミュニケーションの方があっと今にその人のトラウマになるし、ずっと残るからだ。
そもそも音楽はそういう社会的なトラウマや傷ををいやすためのものでもあるのに、そんなものを植え付けるレッスンに行く意味などないし、そういうことに先生側もはやく気づいてほしいと思う。
 そしてそういう「癒し」の部分を忘れた音楽は要はなにか2流のスポーツと同じで、競争することだけに意味がかたよって、要はいきがってるだけのものになってしまい、人に感動は与えないのではないかと思う。

 ぼくは反対に音楽的やさしさの固まりのような素晴らしい先生にあったこともある。そこにきびしさがないかというととんでもない。むしろいい意味での畏怖を感じた。すごすぎる・・・という意味で。
 そしてぼくは不義理をしてしまって、その先生のところには結局1回か2回しか行かなかったと思う。というかなんか行くのが申し訳なくなってしまったのを覚えている。でもそのレッスンの感動はいまでもおぼえている。また機会があったらそれについても書いてみたい。

 すごい先生は内容だけですごいのだからいばらなければいいのに、と本当に思う。その方がすごさが伝わる。
 そこそこすばらしい演奏をする先生には特にいばらないでいてもらいたい(笑)。
 「どうしようもない先生」・・・と思われないように。

 自分も気をつけよう。
 ま、いばるほどの演奏は死ぬまでできないのがわかっているから大丈夫とは思うけど。

2020.8.30.







2020-08-23 | Posted in Essay, WritingComments Closed 

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