Writing

いくつになっても


いくつになっても、人に向かってキレ気味に説教をする人、というのがいる。

友達のミュージシャンでバーのマスターが以前なにかを相談したときに
「そうですよね。大人になって怒られたくないですよね。」
と言ってたが、それにぼくはいまでも100%賛同する。よくこのセリフを思い出すのだ。

それがいくつから上の年齢を指すのかは知らないが、ある程度以上の年齢をこえたら
(僕はもう小学生ぐらいでそうなんじゃないかなぁと思ってるのだが)
「その人はその人でちゃんと考えてる」のだから、いくら自分の尺度でなにか間違っていても
上から説教したり、批判したり、さとしたりする必要はないのじゃないかな、と思う。
「お願い」すればいいじゃないか。自分がそうほんとうにしてほしいなら。
でも死ぬまで年下の人には説教していいものと思ってる変な人もいる(笑)

特に友達うちではほんとうに怒る必要がないのに、とつい思ってしまう。
でもほんとうは町で出会うどういう人に対してもそうしてあげれたらいいんだろう。
ただ、そうもいかないときというのもあって、ぼくもたまにお店の人とかタクシーの運転手さんとか、その日にはじめてあったひとにすごくいらいらしてしまうときというのもある。
でもずいぶんそれも減ってきた。

この、「大人になって誰にも怒られたくないですよね」というのに基本的なところで「そりゃそうですね。あたりまえですね。」と同意できる人とはたいてい仕事がスムーズにいく。
そうでない人とはいろいろ面倒なことがおきることが多い。
ほんとにあきれるほどそれだけのことなのだ。

基本的なリスペクトと、自分と人との違いがわかっているかどうか。

ぼくはぼくで、若い頃はそういう「めんどうな人」といちいちケンカしたりしていた。
(笑 それじゃ結局同じ土俵なのだが)
でもさすがに最近は、上から言われてカーっとこっちも来そうになる寸前で、すごくしみじみと思ってしまうことが増えてきた。年をとったのかもしれないが(笑)

それは、

「人が怒ってるときに言ってることは、だいたい自分本人のことだ」

ということがなんとなくわかってきたからだ。

特に「あなたはこうすべきだ!」という人は、ほんとうは自分がそうすべきだと思っている。自分のことなのだ。怒っているときにその人が言っていることは、自分の考えを述べているのだ。
世の中はこうでなくてはいけないのに!というのは裏をかえせば、「私はこうでなくてはいけないのに!」という根深いコンプレックスである。

誰かに「あなたはこういう人だ!!!」と言われたりすると、若いときはだいたいガーン!!とショックを受けて、そうかぁ、自分が悪かったかぁ。。と思ったりしていたが、最近は
「なるほど、そう言ってるこの人自身のことかぁ」
「あぁ、そうかこの人が、こういうふうになりたくないと必死に思ってることがあるんだなぁ」
とか
そんなふうに思って見れるようになってきた。
そう思ってみるとだいたいのことはなんとなくしみじみしてしまうものだ。戦ってるんだなぁ、なにか僕には関係のないところで。

だいたいの上からの物言いは、言われた方が気にすることはなくて、言った方の人が感じている
「トラウマ」なのだ。
若くてよく誰かに怒られてる人にはほんとにこれを読んでほしい。

そういうトラウマがなければ、いくら自分の尺度から考えて相手がそれと違う!と思ったところで、それを相手に(特に上からの物言いで)訴える必要などだいたいの場合ないのだ。
だって違う人間なのだから。どうしても必要があるときは丁寧にお願いすれば済むことだ。

お互いちゃんとわかっていて、なにが起きてももめないで済む。それは、大人になることの一番ステキなことの一つかな、と僕自身は思っている。まわりが平和な人ばかりというのはほんとうにストレスがなく幸せなことだ。
99%の人はいい年になればそんなことはみんなわかって平和に暮らしている。

でもいまだにそうでない人はいまだになにかを抱えて苦しんでいるということだ。
でも悲しいかな、相手を大人に扱えない人は、本人もそのようには扱ってもらえない。
大変だ。

そう思うと何かできることはしてあげたいな、とは思う。

2018.7.11.

 

 

 

 

2018-07-11 | Posted in EssayNo Comments » 

 

しのごのいう大人にだまされないでね

ここ10年か20年くらいずっと思っているひとつのことがあって、ほぼ確信に近いものが得られたので、書いてみたい。

その10年か20年かの間に

「アートもしくは音楽は、あるなんらかの思想の反映であって、その思想こそが大事なのだ」という考え方や

「アートや音楽の、社会における価値や位置付けを明確にしなければならない」

という考え方が、ほぼ主流を占めてしまったかな?とそういうふうに見える。

そして、新しい価値観や、新しい社会への扉を開くようなものの考え方を待ち、それを発信すること、それこそがアーティストにとって大事なこと、ということが、ほぼ常識となってしまったのかな?と思ってしまうくらい、日々そういう言説を目にしてきた。

かなり前から、それがもしかしたら大ウソなのでは、と心の奥で思ってきた。いや、別にそういう考え方を大事にする人がいるのはまったく構わない。それはそれでよい。

しかし!

そういう考え方こそが、アーティストをアーティストたらしめる条件であるかのように語ったりあるときは学生にそういうことを考えなきゃダメなのだ!と説いていたり、もしくはそこまでいかなくとも「ある自分の考え方を持ってそれ以外の音楽やアートには価値がないというような意見」を言ってる大人に関しては、最近確信を持って、

ほぼ大ウソだな

とはっきり思うようになった。

ほとんどの場合そういうのはその大人自身の「自分の価値を高めるための言葉」であったり、「自分以外のアートを認めたくない気持ち」に近いのではないかなと感じている。つまりすごいざっくり言ってしまえばは本当の自信がないのだと思う。

本当の自信は「私はこれが作れる。作りたい。作っている。(他の人が何を作ろうとも)」ということであって、

「私の作るものはかくかくしかじかの理由で他のものより素晴らしい」ということではないはずだ。後者のようなことを言う人は「本当は何が作りたいかわからない」と言う場合がほとんどと思う。

この確信について論理的に説明しようとしたらそれはそれである程度可能な気もするのだが、むしろ今日は僕が日ごろよく使う「料理」との類似でもう少しだけ表現できたら、と思う。

すごく簡単に言わせてもらうと、

しのごのいっても

「うまいもんはうまい」

ということだ。

そして、料理以上にアートの場合は

その感じ方が人によって「違う」

そこが面白いのだ。

そして、料理もジャンルによらない。高級なものも、軽食のようなものであっても、うまいものはうまい。のだ。

それはどこから来るのか、分析もできるかもしれない。でも基本的には、素材や作る人の「手の技」だ。

こういう料理はいかんとか、料理するならこういうことをわかってなきゃいかん、とかしのごのいう奴のレストランでうまいものを食ったためしはない。

ひどいことを言えば、いくらうまいもんだしてても、店主がある程度以上それについてしのごのしゃべる店は、うまさが半減する。なんでだろう。

そういう言葉と、料理や音楽はほんとうに相性が悪いのじゃないかと思う。ほんとうにうまいもの作る人は、しのごの「大雑把な分類はしない」「簡単に物事を断じない」と僕は感じている。

そしてさらにアートのほんとは一番素晴らしいところは、

うまくないものですら作っていい、というところだ。

意味がなくてもいい!その、あまりにすばらしいそしてあたりまえの楽しい部分を忘れてしまった大人は、一度子供達との音楽やアートのワークショップでも体験してほしい。頭をショックでがーんとぶっ飛ばされた方が幸せになるんじゃないだろうか。

 

自信のない大人はしのごのいうのだ。遊べなくなった人はおぼれそうになって板につかまってるかのように賛同者をつのるのだ。

おぼれる人についていかないでほしい。

ぼくはこの文章を若い人に向けて書いている。めずらしいことだけどはっきりそれを書きたくなった。

どうか、そういう言葉に騙されて、「工夫」しないでほしい。

自分が好きなら好きなことを繰り返す。それは素晴らしいことだ。

しかし頭で考えて工夫する「必要がある」と他からの影響で思うことはほんとうにある意味致命的なのではないかとさえ思う。

自分が「おいしいな」と素直に思えるものを信じて、いや、ほんとうはただただ遊んで遊んで、それでいいと思う。そうやって楽しくだまって作り続けているすばらしい大人がいっぱいいる。ほんとうにちょっと気づけばそういう人がいっぱいいるのです。

そういう人にだけついていってほしい。いや、そういう人はだいたいついていく、とかさせてくれないと思う。ただ対等に一緒に遊べるだけ。そう思ってると思う。

そういうところにしか本当の発見はない。そう思います。

そんな願いを強くもっています。

 

 

 

 

2018-06-09 | Posted in EssayNo Comments » 

 

嫉妬と、硬直した体制。

嫉妬というのはもっとも友情を裏切る

とここ数年よく思う。

怖いことだ。
成功しておめでとうと思えないなら最初から一緒にいなきゃいいのに。とよく思うことがある。

嫉妬してる感情とか嫉妬している表情ほど周りにわかりやすいものはない。
嫉妬は、本人の気持ちとは裏腹に、その人がどれだけ「本当は自分の方がすごいのに」と思っているかをあらわにする。怖い感情だなと思う。わかりやすいところが。

いろんな嫉妬が世の中にあるけれど、経済的成功をしている人に嫉妬している人というのは、本人が成功していない場合でも、経済的成功でいい気になっている人とほぼ全く変わらない価値観だったりする。

困ったことに、経済的に実際成功して単純にそれを喜んでいる人より、「経済はそれほど大事でない」と言っていながら実は深い嫉妬を感じている人の方が、経済優先主義なのではないかと思う。

コンプレックスというのは、実はその考え方に対する強い支持の表れだったりする。

僕の周りにも、全くずっと売れてはいない人から、レコード大賞とって有名になった人まで、そういう尺度でみようとすれば色々いるけれど(真面目に考えたら、そんなの一直線に並べられることですらないのに・・)、面白いことに、その人がそういうことにとらわれているかどうかは、本人の境遇とは全く関係がない、つまり、当たり前のことだが、成功しても何も気にしてない人もいるように、貧乏でもまるで気にしていない人もいる。(実際に困ることはあっても。)

そういうことは、誰かが成功した時の反応とかでよく透けて見える。
実際のいろんなことより、そういう「意識の在り方」の方が大事なんじゃないかな、と思う。
信頼される人は、成功や実績がなくても信頼されるのはそういうことだ。
他の価値観を気にしていないから信頼できる。

そういう意味では、誰か友達の成功を、普通に楽しく穏やかに「よかったなぁ、あいつ」と話し合えたときというのはある意味とてもホッとするというか、なんだか平和な空気が流れる。
それが当たり前と思うのだけど、そうばっかりではない。

嫉妬は平和な友情を裏切る最たるものだ。

そういうことにドキッとするときは、「自分はこれでいいのだ」ということをとことん再確認した方が良いと思う。
現在に満足しないと何も始まらない。

すごい正論を書きすぎていて恥ずかしい気もするが(笑)、でもたまに、嫉妬の裏返しの皮肉のような笑いや表現がなんだか残念な時があるのだ。
そういう皮肉はそれを言った本人のこと以上に、何かすごくがっかりするものを含んでいる。
一見マイノリティーのように見えるものの中に、ものすごく古くて硬直した体制のしぶとさと醜さを感じる瞬間なのだ。

2018.4.3.

2018-04-03 | Posted in EssayNo Comments » 

 

アートは感性? 現場の大切さ。

アートは感性、という言葉を耳にする。それ自体すごく間違ったことではないのかもしれないが、それとともにアーティストは「よくわからない、言葉にできないことを、何となくやる」人たち、とか、「言語では突き抜けられない壁をどーんと感性でつきぬけることのできる」人たち、とかそんなことが当たり前のように言われる時には、すごく深い疑問を感じることがよくある。

アートと呼ばれるようなことを専門としている人で、ある程度真面目に長い時間をかけてきた人ならみな納得してくれることじゃないのかと思うのだけれど、アートは「言語にして説明するよりもっと微細な出来事に関する哲学であったり学問であったりする」と僕自身は思っている。そしてそれは別にアートに限らないと思う。
それについてはまた別の文章を書こうと思うけれど、世の中には「言語にならないことについて言語で発言してはならない」とか「言語で説明できないことは、ない、としなければならない」と思っている人もいる。そういう考え方は特に僕が育った時代には「まだ」主流をしめていたし、僕自身もなんどもそういうまやかしのような「言語優越主義」の詐欺のような罠に引っかかってしまったことがあった。

しかし、実際のところ人間の日常のほとんどの瞬間は、言語になる以前の判断や言語による判断があい混ざって色々に動いている。それがは当たり前の状態であって、だからと言って「はっきり言語にしないこと」は全て「非論理」である、とするのは大きな間違いである。

音楽家はもちろんドレミを使ったり、リズムを使ったり、楽器を使ったりするのだが、それは、経済学者がペンを使ったりPCを使ったりお金に関する計算をするのと同じく、それが主題ではない。
音楽に長い間従事している人に当たり前のようにある一番重要な感覚は例えば「同じ空間にいるというのはどういうことか」「音を出す責任とはどういうことか」といった少々哲学のようなことに近いテーマである。そこまでいってないでプロになっている音楽家は正直あまり周りに見たことがない。
ある程度真面目に長い間それをやってきた経済学者なら「人間にとって経済って何だろう?」という疑問にどこかでぶつからざるをえないのと全く同じであって、音楽家も少なくとも僕のまわりにいるある程度長い間音楽をやってきた音楽家はみな「音とは何か、同じ空間にいて音を出すとはどういうことか」ということを、長い間真剣に考えている。そこらへんのちょっと音楽に関する知識だけかじっただけのような人なんかよりよっぽど考えている。それは音楽ジャンルを問わず、クラシックだろうがポップスだろうがジャズだろうが、プロになっている人はみんなそうだ。だからこそある程度の年になるとジャンルを超えてそういう話がお互いにできて楽しい。
そしてそれは決して抽象的で曖昧なイメージの話などではなくて、音の周波数についてだったり、音を出す時の人の身体や呼吸についてだったり、物の振動についてだったり、そういう具体的なことの話だ。
ところが、音楽家以外の人で、いきなり「いいですね。感性でお仕事できて」というようなことを言ったりする人がいる(笑)なんて想像力がないのだろう。
その人が経験してきているものすごい数の具体的な体験や検証の蓄積が、その人の存在として「思想」としてそこにある、ということになぜ気づかないのだろう、とよく首をかしげる。
言語にならない全ての人の微細な生活の全てが先にあって、それに興味を持って言語化(グルーピング)するのが本当の研究である。言語が先に立ってしまってはそれはただのアジテーション(演説)である。

経済学者に向かって、「あなたはお金のことについてだけ考えているから社会のことについてはわからないですよね?」というのがとても失礼なように、アーティストに「あなたは言語にならない感覚のことをやっているのですよね」というのはとても失礼なのは当たり前のことである。アーティストに限らない。感性だけでする仕事なんかどこにもない。
全ての人が、感性と言語の総力を結集して自分の仕事をしている、そんなことは当たり前のことで、それこそまともな感性があれば(笑)そんなことはすぐわかる。
黙って1日中仕事している人もみんなすごく具体的に色々考えている。僕は音楽家のことしかわからないが、音楽家なら、周波数。物の振動。人間の社会的関係。空間配置についてなどなど、そういうことを日々考えている。何十年も。
それはどんな仕事だってそんなもんだろう。
一日中言葉を使わなくとも、一日中向かっている物事に関して真面目に考えてたら、そこから派生して考えざるをえないことはいくらでもあるし、それはとどのつまり社会についてのことに「否が応でもぶつかっていく」のは当たり前のことである。そして「実際ものに向かっている」というのは言語を言語として扱っている以上に知性的な作業である。身体はそんなに愚鈍な知性ではない。

にも関わらず、言語にしない人には言語はないと思ってるような人がいる。しゃべるとすぐわかる。どっか少しばかにしてるから(笑)。頭悪いなぁ、と思ってしまう。その人自身がまだ「言語」に頼っていて、自分の思想というのに行き着くまでいろいろな物事のしがらみに揉まれてないのだろうと思う。
言語は結果であってそこがゲームではないということに気づいていない。そういうのを本当のバカという。頭の悪さは、「頭の動きの悪さ」ではなく「どれだけ言葉にしばられているか」だ。だから、往々にして愚鈍な人より、よく喋る人の方が本当に頭が悪かったりする。
頭の良さはそういう意味で「まともな生活感覚があるかどうか」なんじゃないかと思う。そういう意味で尊敬できる人がたくさんいる。すごく物事が見えている人というのは世の中にはたくさんいる。僕は割とすぐとらわれる方なのでよくそういう人たちに救われている。

しかしそういうまともな生活感覚がない、というのもそれはそれでとても不幸なことだ。
自分の頭で考えざるを得ない「自由」でなおかつある程度リスクがある現場が身の回りにない、揉まれる必要がない、というのも逆に大変だなと思う。

実際に人に触れ、ものに触れる「現場」というのは本当に大切で貴重だ。
苦労した分だけは必ず何かが実りとして帰ってくる。

2018-04-02 | Posted in Essay, WritingNo Comments » 

 

演奏の録音や録画・Aという子の絵の話・水の影

録音物や映像に関して最近いくつか疲れるやりとりがあった。ある種のことは、文章を書くことでしかいやされないのかな、と思うことがある。そういう「疲れ」のようなものは、社会的なことと、自分個人の心の中にあることとの中間に位置しているのかな、とよく思う。
自分の中でよく説明できない思いがずっとあって、たとえば、誰かがぼくの姿をスマホで撮影してその場でSNSにアップする、それがとても楽しい一場面に思えることもあれば、「え?なんで?」と思って少しだけ心のどこかが傷つくこともある。そんなことからこの文章を切り出したらうまく伝わるのかな、と思う。みんなほんとうは少しずつそういうことがあるんじゃないかな、と思っている。
自分の姿に関してもそうなのだけれど、今日書きたいのは、演奏の録音や録画の話についてだ。
最近二つの録音物や映像に関するやりとりがあった。
ひとつは、ライブの録音をそのパーティーに来ていた人たちに配りたいので録音データをもらえませんか、という話だった。
もうひとつは、自分のライブの録画データをくださいとお願いしたときに、Youtubeの限定公開でアップをしたもののリンクが送られてきた、ということだった。

うーん・・・

両方に関して、ぼくは説明にとても苦労をした。
どこに苦労したかというと、どんな風にお話しても、自分の中の言葉が相手に伝わる段階で「権利(相手にとっては義務)」の話になってしまうことだ。録音の所有権、もしくは、映像の肖像権。そういう話になってしまう。
でもぼくが自分の心の中で訴えているのはそういうことと違う。むしろデリカシーの問題だ。
実際のところ今回の二つの件で、ぼくのライブのデータがなにかの商売になったりする、と考えているわけではないし、それを阻止しようとか、勝手に使うなとか、そういうことでもない。
むしろ、ぼくが訴えたかったことの核心は、
「それを僕が訴えなくてはいけないのだろうか」
という部分の話だった。
だが、結局そこは、ほとんど伝わることはなかったように思う。

世の中では、そういうことは特に気にすることではなくなっているのだな、というのを痛感した。

それが、どんなことなのかを書けるだけ書いてみたいな、と思った。文章という形で。

主人公の名前を何にしたらよいだろう。文章というのはそういうところが難しい。ぼくは文章家でないから、そういうところが少しまだるっこしい。とりあえず、Aとしてみた。
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Aは今日はじめて絵を書いてみた。
絵を書くなんていうのは特にすごいことではない。幼稚園のときから、そして小学校に入ってからも、「自由に絵を描いてください」という時間があった。いわゆるお絵かきの時間だ。
もちろんそういうお絵かきの時間に、Aもいつも絵を描いていた。でも、うまく言えないのだけど、自分で書いていた、というよりは、なにか「書かなければいけないものを、つきあいで書いていた」という感じだった。赤いクレヨンを手にとる。丸を描いて太陽にする。黒いクレヨンを手にとる。人の形らしきものになるように書く。それは、とくに難しいことではなかったが、なんだかすごく悪いことをしているような気がした。でも書きたいな、という気持ちが出てくる前に書くことになってしまったのだから何か書かなければいけなかったのだ。しょうがない、と自分ではいいわけしていた。
でもそんな風に絵を描くようになってしまってから、美術の時間というのは、Aにとってどこかいつも変な罪悪感のようなものを感じる時間になってしまっていた。算数のテストでわかりもしない問題に適当な答えを書いているときにはそんなにその罪悪感を感じることはなかったが、どうしてかクレヨンを自分がなにかに合わせて動かしているときのその感覚はとてもなにか大事なものを傷つけているような、不思議な感じがした。私は誰に申し訳なく思ってるのだろう?
でも今日は違った。
ベランダのところに猫のピーがおっかなびっくりあがっているところを見ているうちに、なんだか無性にそのうしろすがたを自分でなぞってみたくなったのだ。
家でひとりでいる時間だったし、誰が見ているわけでもないのに、いつも美術の時間に使っているクレヨンを出してきて紙に何かを書いてみるというのは、なんだかすごく勇気のいることだった。そんなことしちゃっていいんだろうか?
でも、それよりもピーの姿と、そのおしりのあたりにほんのりとあたっているお日様の光をみてたら、どうしてだか一刻も早くそれを描かないといけない、今を逃してはいけない、そんな気がして、畳の上に学校で使っているスケッチブックとクレヨンを出してきて、Aは思い切りよく、黒いクレヨンを紙になすりつけてみた。
美術の時間には感じたことのないようなどきどき感がそこにはあった。もちろんそんなにピーに似ているように描けるわけでもないのだけど、ピーのおしりにあたっているキラキラしている光を見ながら、なんかそれを写せるわけもないのに一生懸命紙の上のクレヨンを動かしてみてると、自分が不思議なことに「やらなければならないことをしている」という気持ちになった。こんな風に思ったことはなかった。
それは絵の上手いクラスの他の子に自分が勝手に憧れていたような、ロマンチックな感じの作業ではなかった。もっとある意味大切で真面目な作業だった。
あぁ、そうかピーは黒猫なのに、おしりのところにこんな斑点があったんだよな、とか、ピーの毛先にお日様の光がきらきらとあたって、なんだか空気中にふわふわ光線が出てるみたいだ、、とか、いろんな発見があり、同時にいろんなことが頭の中をすごい速さで駆け巡って、すごく集中しているうちに時間がすぎた。
ピーはしばらくベランダで動く虫を見つめてじっとしてたけれど、しばらくすると部屋の方に戻ってきてしまった。
「ピー!じっとしてて」といってピーをおっかけた。
今度は座り込んで自分の足をぺろぺろなめているピーを描こうとしてみたり、ピーをうしろ向けにさせてもう一度さっき書いたおしりの絵の続きを描こうとしたりしていたが、そのうちに、あったかいお日様の中でAは思わずごろんと横になってしまった。
天井を見つめた。
「あー、きれいだなぁ」と思わずAはつぶやいた。それが、いま天井にきらきらとうつっているお日様のことなのか、さっきみたピーのおしりのことなのか、なんなのかわからなかったがそんな言葉が自分の口からついてでてきた。ちょっと涙が出て来そうだった。
よしっと思って、もう一回うつぶせになって、スケッチブックをとって、こんどは自分が思うなにかすてきな絵を書きたいな、と思った。なんだかとても幸せな気持ちだった。
しばらくいろんなことを考えていた。

ふと目が醒めると、もうあたりが薄暗くなっていた。
Aはうつぶせになったまま、開いたスケッチブックに手を乗せたまま寝てしまっていたのだ。
自分の横にちらばっているクレヨンを片付けて、1階に行こうと思った。スケッチブックは自分の机の横にしまった。一瞬、もしかして、この絵を誰かに見られたかな、ということが頭をよぎった。でもたぶん大丈夫だろう。

下で、家族の声がしている。みんな帰ってきたんだ。

下におりていくと、お父さんお母さん、となりの離れにすんでいるAのおばあちゃん、そして弟も集まって何やら3人でがやがやと話をしている。なんだろう。
居間のドアを開けると、みんなが話している。
「いや、すごいねぇ」
「上手だねぇ」
上手?Aはドキッとした。
「上手、上手!」それはいつも美術の先生が言うほめことばだ。

「あぁ、起きて来た、起きて来た。」

お母さんが、Aを見て
「起きたのね、いまみんなであんたの書いた絵を見てたんだよ」と言う。
「え?」
テーブルの上のライトが少し暗くなったような気がした。
絵は上にちゃんとあったのにどうして!
お父さんもニコニコしている。ふとみると、お父さんはおっきなiPadを持っている。
まさか、、と思ったが、そこには自分の書いたピーの絵が大きく写っていた。
<Aのピーの絵>という見出しまでついている。なんだか飾ったようなピンクの文字だ。
「おまえが乗っかっててスケッチブックが抜けなかったから、写真を撮っておいたんだよ」
お父さんはニコニコとして言った。
みんなでそれを回して見ていたのだ。
いろんなことをみんなで話しながら。
「お父さんのFacebookにもあげたら、会社の人がすごいおもしろい絵だ、才能があるってコメントしてたんだぞ」

Aはなにをどう言えばいいかわからなくなって
「ひどい!」
と叫んだ。自分でもびっくりするくらい、涙があっという間に出て来た。
まだ自分でもゆっくり見てないのに。
はじめて描いたピーの絵。

「ひどい!!」
もう一度あらん限りの声で叫んだ。
でも、お父さんもお父さんもおばあちゃんも、大声で笑いだした。
「あらあら、どうしたのこの子は」
「かわいいわねぇ」
「いいじゃないの、上手よ、上手に描けてるわよ。大丈夫よ。」

(なにがいったい大丈夫なんだろう?上手だと大丈夫なんだろうか?)

それを聞いて、泣いてひくひくしていたAのおなかのあたりが、驚くほどぴたっと静まりかえった。
泣いている自分の声はまだ聞こえたいたが、体の芯のあたりがとても静かになってしまった。
こころの中の本当に深いところであることに気づいた。

あぁ、ほんとうに、ほんとうにこの人たちは私がなんで泣いているのかわからないんだ。

大丈夫?大丈夫ってなんだろう。

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おしまい。

ぼくが演奏の録音とか録画に関していつも思うことは、とても簡単なことです。

「できれば録音したり、録画するなら、そのことを自分が知っていたい」
そしてできあがったら、
「まずは自分だけで(もしくは一緒に演奏した人たちだけで、できればいっしょに)じっくり見たい・聴きたい」
そして
「しばらくは、(それを公開するとか、だれかに渡すとか、商売にする、とかじゃなくて)ただ、そっとしておいてほしい」

というそれだけのことです。
しかし、驚くことに、ぼくからすると、「ものを創る人」ならみんなそう思うんじゃないかな、というたったこれだけのことが、ものすごく伝えるのが難しい場合があります。

これはまったく権利の話ではないのです。

自分の気持ちから出て来たばかりの「はだかの恥ずかしいもの」を、こっそり人に見せている、見てもらっている、という感覚は昔のものになってしまったのだろうか。そういう感覚がなくなってもアーティストなんだろうか?

自分の作ったものの複製(録画や録音を)をすると言うこと自体が、かなり暴力的なことだ、というのはほとんど忘れ去られてしまっている。
そして、作った人にとって
「それを自分にください。そしてしばらくそっとしておいてください」
と、声に出さないといけないということ、
そのこと自体が、実は一番傷つくことだ。

「言わなくてもわかってもらえる」ということでしか、報われない気持ち、というものが実際にこの世の中にはある。
そして、それはたぶん世の流れには乗っていない。でもとても大事なものだ。
アーティスト(それが職業でなくとも)はそこを扱っている、と思っている。

ぼくはそういうふうに思ってるが、もちろん、そうは、思っていない人もいる。
アーティストは商業世界の中で、世の中の座標軸の中での自分の位置をはっきり説明できる人、という説明をしていた人の講座を見たこともあるから、考え方はほんとに人それぞれだ。

ユーミンの「水の影」という曲の歌詞に

<よどみない浮世の流れ とびこめぬ弱さ責めつつ けれど傷つく心を持ち続けたい>

という一節があった。

僕は、傷つきやすい人と仕事をしたい。そう思う。
傷つきやすく、それでいて、それを怖がらず、そのまま出す勇気のある人と仕事がしたい。
と思います。
それは、<傷つくこと>を忘れてしまうこととは正反対のこと、と思います。

そして、その傷つきやすさ、をそのまま出していくのは、もちろん「本人」であるべきだと思う。
そして最も大事なことは、「出していかない」ことも大事なことだと思います。
<発表>や<共有>だけがアートではない。
もっと大事なことがある。それはぼくがアートの一番本質ではないかと思っている部分の話です。

ワークショップで、本人が楽器に自分で触れはじめる、ということを一番大事にしているのも、僕の中では同じことです。

2018.2.13

2018-02-13 | Posted in EssayNo Comments » 

 

陽だまり

陽だまり

もうすぐ改装される予定の駅の階段を降り、そのまま線路ぎわを歩き、踏切を渡ってから、ちょっとだけ脇道に入ったところにそのレストランはあった。
コロッケや炒め物のシンプルなランチを出すお店で、カウンター7席しかない店だったが味に特徴があったのと、カウンター越しに店員さんがジュージューと炒めたりコンコンと切っている音や振る舞いに勢いがあって、いつ行っても会社員や学生で席が埋まっていた。オーナーは別にいるのだろう。店員さんもアルバイトでそれほど愛想がいいわけでもなく、悪いわけでもなく、お客さんもひとりひとりたんたんと食事をして順番にお会計をして出て行く、そんな店だった。
駅の周りはもうすぐ行われる駅前工事のために、歯抜けのように店がなくなっては空き地になり、立ち入り禁止のロープが張られていき、僕がこの町に引っ越して来た頃のほのぼのとした駅前の雰囲気はすでにすっかりなくなってしまっていたが、その店だけはそういう時代の移り変わりにも関係ないものがあるんだと言わんばかりに無表情に同じ営業を続けていた。

そのころ、僕の仕事の状況も、まるで駅前の風景とシンクロするかのように、つい数年前までゆっくり一緒に未来を夢見ていた仲間たちが一人去り、二人去り、ますますうまくたち行かないようになっていた。
毎晩夜遅く電車を降りて、空き地が広がる駅前を通って家に帰るとき、その風景はまるで自分の仕事の状況を暗示しているように感じられた。自分のために用意された不吉な映画のセットのように。
そんな中でもいつもその店だけは煌煌と灯りをつけて営業を続けていたが、その無表情な営業スタイルとまったく飾り気のない店構えは、むしろ僕の気持ちをあせらせることはあっても明るくすることはなかった。まるで、速い時代の流れに負けないためには、より無表情に生きるしかないのだと言われているようなそんな気持ちになった。
僕は次第にいろんなことを悪い方へ悪い方へと考えるようになり、仕事場でも少しずつ口数が減っていった。その年はどういうわけか天変地異のようなことも多くニュースを見るたびにさらに暗い気持ちになっていった。
そしてしまいには家に帰ってから一緒に住んでる彼女のいう言葉のひとつひとつにもビクビクするようになってしまっていた。

そのころの話だ。
その日も僕は駅前の通りを歩いて家に帰り、黙って自分の机にカバンをおいたまま、座り込んで、ほんとにいったいどうしたらいいんだろう、と考えていた。 いや、どうしたらいいんだろうという言葉だけがなんども頭の中でリピートされてはいたが、もう実際には何も考えられなくなっていたんだと思う。
「聞いてくれる?」
顔を上げると、さっきまで台所にいたはずの僕の彼女が、すぐ横にいていつになく真剣な、見ようによっては深刻とも取れる表情をして座っていた。彼女がそばに来ていたことにも僕は気づいていなかった。
僕は反射的にあまり彼女の話の続きを聞きたくないと思った。何があったにせよ、これ以上の厄介ごとにはもう耐えられないんだ、だから頼むから静かにしててくれ。そう思ったがそれすらももう口に出す元気がなかった。 僕はだまって彼女の顔を見ていた。
「あの駅のとこのレストランに今日行ったのよ」
彼女は言った。
彼女の話は僕の頭に染み込まない。ただ、頭のほんの表面の方で、なんだ、そんな話か、とぼくは思っていた。あとの頭の大部分は、いまそれどころじゃないんだ、仕事が大変なことになっているんだ、と思い続けていた。
ただ、昼間に一人で彼女がそこに行ったというのを少し意外に思った。あんまり女の子が一人でごはんを食べに行くような雰囲気の店ではない。ひょっとしてそこでなにかがあったんだろうか。
「そしたらね、、」
と彼女が続けた。
「鳩が入って来たの」
「鳩? 」
僕はびっくりして思わず聞き返した。鳩が入って来たということにでなく、ハトという言葉が出て来たこと自体がすごく意外だったのだ。ハトという生き物のことなんかすっかり忘れていた。というかあの駅前でハトなんかみたことがあっただろうか。
「そう。今日天気が良かったから店のドアがあけてあってね。そしたら、ふとみたら、入口のとこに、ポッ、ポッって。鳩が。」
僕は話の続きを待った。彼女が黙っているので、
「それでどうしたの?」と僕は聞いた
「それだけ。鳩が入って来たのよ。かわいいでしょ。」
そう楽しそうに言うと彼女は再び台所に行ってしまった。
彼女の背中に向けて、僕はずいぶん遅れて
「そうか。」
とつぶやいた。

たぶん僕はその日もそのあと寝るまで、相変わらずいろいろと仕事の心配をぐじぐじと考えたりしていたんだと思う。でもそれと同時に、頭のどこかで、ずっと、あの無表情なレストランの入り口に、となりの空き地からやってきた鳩がポッポッと鳴きながら入ってきているところを思い浮かべていた。
そして寝床に入り目をつむると、なんだかきっとそこに、店先に入って来た鳩の足元あたりに、「あたっていたんだろうな」と思われる、太陽の光がありありと目の前に浮かんだ。
その光景を思い浮かべながら僕は眠りについた。

あれから十何年経って、もう僕は遠くの違う場所に引っ越してしまった。その町では本当にいろんなことがあったのだ。決していいことばかりではなかった。
それでも、いまでも僕がその町のことをふと考えるときに、いつも頭に最初に浮かぶのは、僕自身は見ていないはずの、レストランの入り口の鳩の光景なのだ。

(2016.12  京都平安堂さんでの朗読会にて、朗読家辻曙美さんの朗読のために書きました)

2017-01-02 | Posted in SentenceNo Comments » 

 

So, So(とてもひどかったという意味の)

ぼくはキーボーディストとしてはとても機材(キーボード)を買わない方だったのではと思う。少なくとも今までは。
特にこの10年か15年くらいはほとんど3台のメインのキーボードで仕事を回して来た。
その3台が、ほぼ時を同じくして、最近お亡くなりに(?)なった。というか、お亡くなりになった、と判断せざるをえなくなった。
ずいぶん前から、調子が悪く、何度も修理に出したり、自分でネジをはずして中を空けて調整したり、いろいろしてたが、もういろんなところがガタがきて、もう無理かなぁ、と思いつつ、愛着もあるため、捨てるに捨てられず、ずっと家にただ置いてあったが、そろそろお分かれしようと決心した。
というか決心するために、この文章を書く事にした。
お葬式で読むお別れの言葉のようなものだ。

3人も相棒が亡くなったので、順番に。今日はまずは、Triton Leさんについて。

いままで会った多くのキーボーディストの人は、まず大体車を持っている。キーボードを運ぶために。そして、車になにかあったときのための替えの(同じ機種の)キーボードを積んでいる人さえいた。また、多くのキーボーディストの人は研究のために、もしくは、趣味で、いろいろ新しいキーボードをとっかえひっかえ試したりする。
ぼくは、どっちもうらやましかったが、まず免許がないのと、お金がないのとで、「軽いキーボード」を長く使う、というのがキーボードを選ぶときに求められる必須条件だった。
つまり「軽くて使い回せて丈夫」というのが選ぶ第一条件。
ふつうは第一に音質や音色の好みや機能で選ぶのだが、ぼくの場合はそれももちろんあるけれど、それだけでなく、「機動性」が最重要だった。

80年代以降のレゲエのピアノの裏打ちにはかかせない(と僕が思っていた)KORGのM1というキーボードの音がほしくて、それと同じ音が入っていて、それでも持てるキーボード、、と探して買ったのがこのTriton Le(トライトン・エルイー)だった。
M1自体の方がピアノの音としてはずっと重たさがあってよかったのだが、そこはがまんした。音が重いだけでなく、M1はキーボード自体もものすごく重かったからだ。とても2台は持てない。
でも、ジャマイカのキーボーディストを見て自分がどこが一番好きだったかというと、「チープな音のキーボードでもかっこよく弾いてしまう」のりのよさ、だったから、「多少、廉価版のキーボードでもよいのだ」と自分を納得させていた。
だんだんそれは、納得するだけでなく、なんとなく自分のへんなプライドというかスタイルになっていった。「安っぽいキーボードでもかっこよく弾こう!」と常に思うようになった。

Triton LE というのは、Triton(トライトン)というこれまた有名な(M1よりは時代はずっと新しい)キーボードの、いわば廉価版、ファミリー版(?)みたいなもので、Triton自体よりは軽くて安くて音数も少し少ない。たばこで言うところの、キャスターマイルドとか、コーラでいうところの、ペプシ・ライトとか(そんなのあったけかな)、そんなようなものだ。
だから、これを使い始めたころは、「なんでLeなんですか?」とか現場のスタッフに聞かれたりすることがあった。
たとえば、たまに大きいツアーがあって、好きなキーボードを現地レンタルできるなんてときにも、自分の持ってる使い慣れたものと同じものがよいから、楽器担当の人に「なにを用意しますか?」と聞かれて、「Triton Le 2台でお願いします」なんていうと、
「え?Tritonじゃなくて、Leですか?Triton頼めますよ。Leにしなくても。」
「いえ、Leがいいんです。使い慣れてるんで、、」
「えーと、でもLe  をあえて使う方はあんまりいらっしゃらないので見つからないのですが、、」
なんてことになったりした。
あれは、廉価版でステージで使うものではないですから、、と、笑い飛ばされてしまったこともあった。
でも「他の人にとってチープなキーボードと見られてても、慣れてるものを使うのが自分のスタイル」ということには、勝手にプライドを持っていた(というかそう決めないとどうにもならなかった 笑)ので、「いや、絶対Triton Leでお願いします」と突っぱねて、楽器担当の人がこまったあげく、Leをその機材レンタル会社の新しい機材として買ってくれたことすらあった。いまから考えるとほんとうにありがたい話だ。というかわがままだったなぁ、と思う。

実際のところ、廉価版のためかちょっと音が軽いなぁ、という音色もあったりした。そういう場合は、プログラムをいじってちょっと重さを加えたり、いろいろ工夫をしないと納得できない場合もあったがそうやって作ったいろんなパッチ(音のセットみたいなもの)がたまっていくのが楽しかった。

そして、いろんな思い出がある。今でも忘れられない音楽についての思い出。

そのころ僕は大体普段は、ぼくは東京に住んでるアフリカ人やジャマイカ人の人たちのバンドで飲み屋さんや、パーティーなどで演奏するのがメインの仕事で、たまにジャマイカから来たアーティストのバックをやらせてもらったりしていたが、はじめてMINMIという日本人レゲエアーティストのバックで、仕事をさせてもらったときのことだ。
基本レゲエは(というか「僕が考える」レゲエは)、「自分の手で弾けないものは弾かない」というのもひとつのプライドというかポリシーのひとつと思っていたが、MINMIの曲でどうしてもこれは2本の腕では弾けない、という曲があった。
そのときまではぼくは知らなかったが、日本のポップス業界の場合はそういう場合はどうするかというと

①もうひとりキーボーディストを入れる

②シーケンサー(コンピューター)を使う

のどちらかにしましょうってことになることが多いらしいのだ。①は予算とかの問題があってその曲のためにもうひとり人員を増やすというのはなかなか難しい場合が多いので、②にしないか、という話になることが多い。(ということをぼくはそのときに始めて知ったのだ)。
コンピューターで作ったオケを流してそれに合わせて弾くというのはその後もなんどか日本のレゲエの現場で頼まれた事がある(これを「同期」と呼ぶ)が、ぼくは基本的にあまり好きでなかった。
「同期」と「あてぶり」は絶対やらない、というのがポリシーだった。
あてぶり、というのは実際は弾いてないけど、映像のために弾いてるふりをすることだ。
同期はやってできないことはないけれど、あまり楽しくはないし、やっぱりLive & Direct というレゲエの大事なキーワードの一つである言葉が表している、直訳すれば「生(なま)で直接!」という精神がぼくは好きだったし、そのときにもなんとかひとりで弾いてやろうと思った。
で、結局どうしたかというと、右手の親指でストリングスの音を弾きながら、他の指で、エレピの音を弾く、しかもエレピの音も一つの鍵盤を弾いたら二つ以上の音つまり和音が出るようにプロミラミングしておく、そして左手でピアノを弾く、というようなことをしてなんとか解決した。
MINMIの仕事をきっかけに、しばらくそういう、「ひとりでどこまでたくさんの音を弾けるか」みたいなことをやってみていたが、(つまり打ち込みで作られた曲は重ねてある音色の数がすごく多いのだ)あるときふと、これはあれに似ている!と思った。
それはなにかというと染之助染太郎?だっけ。あの、お正月に出てくる、傘の上で升を回してごらんいれます〜みたいな芸人さん。なんかああいう、職人的な気持ちになってくる。もちろん染之助染太郎さんみたいにまですごいことをやってるわけでもないが、なんかやってる気分の中に「いつもより多く弾いております!」みたいな気分が含まれている。

しかし、あるとき、ちょっとせつなくなる出来事があった。
一回MINMIのライブが終わって見にいてくれていたポチくんというキーボーディストの友達に感想を聞いたとき、「あの曲は、同期つかってたでしょ?ひとりじゃ弾けないもんね」とさらっと言われた。
「え!一人で弾いてたんだよ」
と言うと
「そっかーぜんぜんわからなかったな」
とこれまたさらっと言われた。
ガーン!ひとりで弾いてたのに!と思うと同時に、「それもそうだよな、独りで無理して弾けたところでそれがなんなんだろう?」と考えさせられた。

そしてその後、またあるとき、それに関してより本質的にショックなできごとがあった。ショックというか、とても胸にズガーンときたことなのだが。
L.U.S.T.というジャマイカのアーティスト(ルーキーD、スリーラーU、シンギングメロディー、トニー・カーティスの4人組)の日本ツアーのバックをしたときのこと。
ぼくは張り切ってたくさんの音をプログラミングして、本番もいっしょうけんめい弾いたのだが、そのライブが終わったあとのこと。
ぼくが「ふーっ、終わった、、」と思って椅子に座ったのもつかのま、あるお客さんが、たぶん日本在住のジャマイカ人の人だったのだと思う、がぼくの前に来て座った。しゃれたメガネをかけていた。友達と二人だったと思う。なんだか、とてもさりげなく、さりげなさすぎて、え?と思うような感じで気づいたら僕の前に二人が座ってにこにこしていた。
彼は、グラスに入ったお酒をゆっくり飲みながら、しばらくしてから、かなり上手な日本語でゆっくりとぼくに話しだした。
「きょうのライブはどうだった?」
急にお客さんの方から聞かれて、ぼくはすぐ答えられずに、ちょっと間が空いた。そして、「楽しかった」というようなことをたぶん言ったのじゃないかと思う。
そしたら、彼は続けて、
「ジャマイカ行ったことある?」とぼくに聞いた。
「いや、ない」とぼくが言うと、彼は、
「ジャマイカのライブはほんとうにすごい。たぶんあなたは知らない」と言ったあとで、ゆっくりと間を置いた。ぼくは何も言えずに黙っていた。
まわりにはライブのあとの音楽と人々の騒ぎ声が満ちていた。
しばらくして彼がゆっくりと言った。
「悪いけれど、今日のライブは、」と言って、手のひらを下に向けて、
「so,soね」
と言った。
英語の、so,soと、ぼくに向けたやさしさの「ね」。
英語の意味はたぶん「まぁまぁ」という意味だが、しぐさは、あきらかに「ぜんぜんよくなかった」という意味だった。手のひらがしっかりと下を向いていた。
ぼくはギクっとした。
そして、彼は続けた。
「あなたは、たくさんの音をキーボードで弾いた」と彼は言った。
「ギターの音をキーボードで弾く。ブラスの音をキーボードで弾く。あなたはたくさんの音キーボードで弾いた。」
そして、ぼくの目をじっと見て、
「でもオルガンだけでもいい音楽できる。」
「わかる?」
と彼は言った。
しばらくの間、それはほんの1秒か2秒だったかもしれないが、ぼくの目じっと見た後、彼はふいに、
「とにかく、今日のライブはSo,So。ごめんね。じゃあ、向こうで楽しんでくるよ。」
そういうと、彼の友達もリズムを合わせたように立ち上がってどこかへいなくなった。

あきらかにそれは、「期待してきたけど、残念だった。そしてそれはあなたのプレイに問題がある」というメッセージだった。
もちろんのことだが、ぼくはすごく落ち込んだ。
と同時に、なんだかそういう音色のプログラムにばかり夢中になっていた自分についてすごく考えさせられた。
今考えると、ほんとうにありがたいメッセージであった。
もちろん、そう思えたのはしばらくあとになってからだったけど。

もちろん、仕事によっては、いろんな音を出さなくてはいけないこともある。でもそれをどう省略して、少ない音色で「いい」演奏をするか、というのも大事だな、とはっきりそのときに思った。元曲を再現することに夢中になってはいけない。
音色の数について考えるときは、今でもだいたい、そのときのメガネをかけたジャマイカ人の顔が出てくる。
しかし困ったことに、ついつい元の通りに音を増やしてみたくなったりするくせは多分いまだに抜けていない。だから今またその同じジャマイカ人が演奏を聴きに来ても。
「まだ同じことをしてるのか。」と言われるかもしれないな、と思う。

もともと、レゲエは、というか音楽は、「音を出してないところ」で語るものだ、とはよく言われる。それが真髄なんだと思う。たくさん出したからいいってもんじゃない。
しかし僕はいまだにその域には行けていない。
が、そうなんだと思う。

頭の悪いぼくはやってみないといろんなことが体に沁みない。よく頭がいいですね、と僕に言ってくる人がいるが、自分でほんとに自分は進みの遅い人間だな、とつくづくよく思う。
そのときも、とことんたくさんの音を出すのにはまってみて(笑)結局そんなことに気づいたのだったが、それでもそんなにすぐはそういうくせはなおらないのだ。

とにかく、そんなわけで、このTriton Leには、そんなプログラムがやたらといろいろ入っている。
今、捨てようとしてそういう自分が作ったプログラムを弾いてみてると、すごく笑ってしまう。はしからはしまで指でなぞると、いろんな音色が出てくる。よくこんなに並べたなと自分でも思う。たしかにちょっと病的かもしれない。
でもどこか、なんだか昔のアルバムを見ているようだ。
そして、キーボードの上には、ところせましと、「あんちょこ」つまり試験でのカンニングペーパーみたいな紙が貼られている。本番直前にどうしても不安なことをメモしてはったり、曲順の紙をはったりしてたものが2重3重に重なっている。そういうのも張ってるとよくジャマイカ人とかアフリカ人に「そんなの見てるようじゃだめだ」と怒られたものだ。かなり劣等生としての自分。
そして、いろんなところでもらったステッカー。いろんなところに一緒に旅をした。

本当に長い間お疲れ様でした。そしてさようなら。

また、今度、あと2人のお亡くなりになった相棒、ノードエレクトロ(初代)、と、Yamaha CS2xさんについても書きたいと思う。それぞれに違う思い出がある。

tritonle

(2014.11.30)

2014-11-30 | Posted in SentenceNo Comments » 

 

国会議事堂のプール。三谷のお刺身。インド。

20代の半ばのころのどうでもいい「プール」の話。
ぼくは、その夏、生まれてはじめてプールの監視員のバイトをした。
ぼくは子供のころ、体育全般苦手だったけど、泳ぎがもっとも苦手だった。夏のプールはただただ恐怖だった。バタ足で1メートルも行くと立ってしまうタイプだ。水に顔をつけるだけでも鼻に水が入っていやだった。低学年のころ毎朝洗面器に顔をつける訓練をしなさいと言われていやいややった。
プールの深い方はくっきりと水面の色がはっきり違って黒く見えるくらい恐ろしかった。別にほんとうに色が違うわけでもないのに。一度怖くなるとまったくだめなタイプだから、プールだけでなく、さかあがりも跳び箱もマット運動も全部苦手だったが、プールがもっとも怖かった。
なんと小学6年生にもなって、学校のプールで溺れたことがある。
学校のプールはたてが25メートル。横が何メートルだったか忘れたけど、とにかく一番深いところはぼくの背では足がつかなかった。ぼくはすごく小さかった。
ぼくはその一番深いところを通過するときに恐怖にかられてバタ足が続かなくなり、パニックになった。ほんの1メートル先のプールサイドまで行けないのだ。自分がおぼれている?というのにおどろいた。6年生にもなってまさかプールでおぼれるやつがいるとは誰も思わないから、最初は誰も気づいてくれなかった。
そのうち、体育の先生が飛び込んで助けてくれた。先生に助けられてプールサイドにあがる瞬間、ぼくはみんなにいつものように(鉄棒で、さかあがりをしようとして怖さのあまりに自分から両手を離してしまって地面にガツンと落下したときのように)こっぴどく笑われるんじゃないか、、と思ってドキドキした。
でも実際にプールサイドに上がったときは、特にだれもなんの反応もしなかった。なかったことのように。もうみんなそんなに子供じゃなかったのか、あまりに悲惨で笑えなかったのか。かわいそうと思ってくれたのか。

そんなぼくもどういうわけか、大人になるにつれてある程度は泳げるようになっていたけれど、特に得意ではなかった。だからまさか自分がプールの監視員をやるとは思ってなかった。
大学を出たあとのことだ。
その年の夏、そのころつきあっていた彼女(ぼくはミュージシャンを目指していて、彼女はイラストレーターを目指していた)と一緒にできるバイトはないか、とアルバイト情報誌を見ていたら、いきなり彼女が「プール監視員募集、初心者歓迎」というのを見つけたのだ。初心者でもいいというのに二人ですごく驚いた。おもしろそうだよ、面接受けてみようよ。
ぼくは彼女と一緒にバイトができるというだけでうきうきしていた。
面接に行ったらおどろいたことにすぐ採用された。
そして、もっとおもしろいことに、ぼくらが担当することになったのは、なんと、「国会議事堂」の中にあるプールの監視員のバイトだった。

「国会議事堂」の中にプールがあるんだ、、ぼくの頭の中にはなんだかものすごいきれいなホテルのプールのような光景が浮かんだ。

初日に、国会議事堂に行った。
想像したのと違い、小学校のときのプールと同じようなプールだった。田舎の小学校に来たのかと思うような景色。やはりたてが25メートル。そして苔だらけだった。
まわりに見えるのは、すごく大きいけどひと時代前のビル?という感じの建物がひとつだけ(あれは議員宿舎か何かだったのか、もう忘れた。国会議事堂自体は、プールからはまったく見えなかった)。
ぱっと見たとき、なんでだか「社会主義の国ってこんな感じかな?」と思うような風景だった。東京のど真ん中にいるとはまったく思えなかった。

一年放置されたプールの水はすごく濃い緑色になっていて、プールサイドにもたくさん苔が生えていた。
そういえば小学校のとき、夏になると、先生と一緒にプール開きの手伝いをさせられた。ま緑になったプールにぼくが溺れたときに助けてくれたその体育の先生が、(あれはプールの底にある栓を抜きに行くためだったのか理由は忘れてしまったが)さっそうと飛び込んで行く姿を急に思い出した。飛び込みの美しい姿勢。ま緑の水(ぼくにはそうとう気持ち悪く見えた)をものともせずとびこんでいくその先生の男らしい感じ。
ぼくはその先生をいつもかっこいいなぁ、、と思って見てたのだった。

プール開きの日まで、4人でひたすらプールの中とプールサイドをデッキブラシで磨いた。数日後にプール開き。それまでに間に合わせなくてはいけない。
4人というのは、上司のおじさんが1人、ずっと監視員をしてる大学生が1人、そして彼女とぼく。
上司のおじさんは二人。大学生も男女二人。交代でどちらかが来ていた。ぼくと彼女は毎日。
高圧洗浄機というものもはじめて使った。どう見ても落ちないと思われたプールサイドが少しずつ白くなっていく。毎日ここからここまで、と決めて一生懸命磨いた。

そして、プール開き。
はじまってみて、ぼくがなによりびっくりしたことは、一日の利用者の少なさだった。
昼休みの1時間の間に、泳ぎが好きな国会議員や秘書のようなひとたちが数名くる以外は、利用者がほとんどいなかった。一日平均10名というくらいの感じだったと思う。たまーに天気がよく気持ちのいい日には、たくさんの人がくることもあったが、雨の日などは一日中誰もこないこともあった。

それで毎日こちら4人分の仕事料が出てるのかと思うと、やっぱり贅沢な場所だなぁ、と思った。
時間がいくらでもあったから、少しずつ「救助法」の基礎となる泳ぎを教わった。
最初に教わったのは、おぼれた人を助けるための、「巻き足」というものだ。立ったまま両足をくるくるとかきまわすように回して、水中で浮かんでいる訓練だ。
「巻き足が得意なおばさんは、水中で巻き足しながらお弁当たべたりできるんですよ」と大学生に言われておどろいた。

ひまな日は、ほとんど一日中自分たちが泳いでいることもできた。日に日に、小学校のプールで溺れていた僕も泳げる距離がだんだんとのびていった。
「長距離泳ぐときは、ほとんど寝ながら泳いでるみたいな感じでいいんだよ」と上司のおじさんが教えてくれた。たしかに力をぬけばぬくほど楽におよげるのだ。まったく前に進もうとか考えなくても少しずつ前に勝手に進んで行く。小学校ではこういうことは習わなかったな、と思った。
泳ぎが得意ではなかった自分が毎日少しずつ水になじんでいった。

上司の1人は、生まれてから会ったなかでもっとも典型的な「江戸っ子」という感じの人だった。「浅草?あんなとこ、だいきれーだよ」とよくその人は言った。でも飲みに行ったりして、祭りの話になると、とろけるような顔で「祭りはえ〜ぞ〜」といつも言っていた。
古式泳法の達人で、見た事もないような泳法をいっぱい見せてくれた。なんだか花火みたいな名前がついた泳法があって、きれいだった。猟銃を打つのが趣味で、おれは戦争になったら鉄砲で三谷を守るんだ、とよく言っていた。
一度、「三谷に世界一うまい刺身の店があるからつれてってやる」と言われて連れて行ってもらったお店は、まるで誰かのうち?ここ入っていいの?という感じのお店に見えないようなところだったが、そこで出て来た刺身は500円でこれでもかというばかりにどっさりいろんな刺身がもられていて、あとにも先にも人生の中で食べた刺身の中で一番うまかった。
いったいどうやって仕入れてるんだろう?と思った。

たまにそのおじさんの子どもがプールに遊びにきた。おじさんは、プールサイドの椅子に足をかっと組んで座りながら、
「おい、まっつぐ行ってしだり、って行ってみろ」と自分のこどもに何度も言った。
江戸っ子は、サ行と、タ行もしくはハ行が入れ替わるという話は聞いていたが、そのおじさんがそれを子供にふざけてしょっちゅう教育してるのがおもしろかった。
男の子は元気なでかい声で「まっつぐいってシダリ!!」と叫んでいた。
おじさんはそれを見て得意そうにいつもニコニコしていた。

もうひとりの上司はなんだかおっとりした感じのおじさんだったが、ある雨の日にその人にインドの話をされた。
プールサイドの小さい小屋のようなところに、3人で(その日は、大学生はおやすみだった)並んで座っていた。ぼくと彼女とおじさん。
ぼくは、小さいラジカセで自分のつくったベスト曲集のカセットをいつもかけていたのをおぼえている。キャロルキングとかプリンスとかなんだかそのころ好きだったものがランダムにいろいろかかっていた。
プールサイドにふりそそぐ雨を3人で横にならんでじっとみつめていると、そのおじさんが、急に
「インドに行ったことある?」と言った。ふだんもの静かな感じのそのおじさんが急にそんなことを言うのでぼくはちょっとおどろいた。
「ないです。」というと、
「君は行ってみたらいいと思うよ」
と言われた。

??

「人生観が変わるよ」
「そうなんですか?」
プールの向こうに見えるかなり古い感じのコンクリートの建物と、プールに落ちる雨をなんとなく見つめながら、インドのことを考えた。
「気づくと足下に死んでる子供がいて、ふんづけちゃいそうになったりするんだよ。」
とその人は言った。
それ以上は特に何も言わなかった。

大学生の監視員二人の男女にも、ぼくと彼女はすごく好感をもっていた。
身の回りにまったくいないタイプだったのだ。びっくりするくらい肌を露出する競泳用の水着をいつもピタっと身につけ、二人ともものすごくスタイルがよかった。さわやかで明るく、同時にいつも自然体だった。
ぼくも彼女も背が低いほうだったが、二人は背が高くすらっとしていていて、美男美女だった。なんだかドラマに出てきそう、、と思った。
どう考えてもすごくモテるだろうなぁ、、、などとぼくはすぐうらやましく思っていたが、本人たちはまったくそんな感じの意識もないようだった。
「ほんとうに二人はさわやかだよね、、」と彼女とよく話した。

変な話だけど、「毎日日常的に水の中にいる」、っていうこと、をいままで自分はまったく知らなかったのだな、と思った。
それは人をどこかでやっぱり変えるのだなぁ、と思った。

水、かぁ、、

と思った。

そのバイトを続けるうちに、ぼくも彼女も日に日に体が丈夫になっていった。
バスに乗るときとかに、少しぐらい揺れても、ぜんぜんらくちんになっていってるのが自分でもわかった。自分は運動部の経験もなかったからそんな風に自分の体が目に見えて変わっていくのがとてもおもしろかった。
特に、彼女はそれまで小さいころに自転車に乗ってるときにうしろから車に追突されてひざをケガしたことがあって、疲れてくるといつもひざを痛がっていた。痛くなってきたときの彼女の悲しい顔はぼくにとって日常のひとこまみたいになってた。ひざの「お皿」の骨が変な具合にくっついてしまってもう一生直らないのだ。
でも、ある日彼女が「最近ぜんぜんいたくないんだよ!!」とすごく嬉しそうに言った。「巻き足がすごくいいみたいなんだ」。
なんだかすごいまぶしいような笑顔でそう言っていた。

夏。長いようで全部で2週間くらいのことだったんだろうか。なんだか思い出すと夢の中のできごとみたいだ。のどかな国会議事堂のプール。

最後に仕事が終わる日に、全員でビヤガーデンに行った。
江戸っ子のおじさんは始終ニコニコしてたけど、ほんとにその瞬間だけすごく真面目な顔で、 「正直、おまえを見てるとさ、おまえがほんとに思いっきりなにをやりたいか、まったくわからねぇんだな。」
と僕に言った。そして、
「やりたいことをさ、もっと思いっきりやったらいいんじゃねーかな、って思っちまうんだけどなぁ、、」
とビール片手に、ちょっと困ったような顔をした。
インドの話をしてくれたおじさんは横でだまってにこにこしていた。

なんだかそれをよく思い出す。

(2013.02.18)

2013-02-18 | Posted in SentenceNo Comments »