Essay

いくつになっても


いくつになっても、人に向かってキレ気味に説教をする人、というのがいる。

友達のミュージシャンでバーのマスターが以前なにかを相談したときに
「そうですよね。大人になって怒られたくないですよね。」
と言ってたが、それにぼくはいまでも100%賛同する。よくこのセリフを思い出すのだ。

それがいくつから上の年齢を指すのかは知らないが、ある程度以上の年齢をこえたら
(僕はもう小学生ぐらいでそうなんじゃないかなぁと思ってるのだが)
「その人はその人でちゃんと考えてる」のだから、いくら自分の尺度でなにか間違っていても
上から説教したり、批判したり、さとしたりする必要はないのじゃないかな、と思う。
「お願い」すればいいじゃないか。自分がそうほんとうにしてほしいなら。
でも死ぬまで年下の人には説教していいものと思ってる変な人もいる(笑)

特に友達うちではほんとうに怒る必要がないのに、とつい思ってしまう。
でもほんとうは町で出会うどういう人に対してもそうしてあげれたらいいんだろう。
ただ、そうもいかないときというのもあって、ぼくもたまにお店の人とかタクシーの運転手さんとか、その日にはじめてあったひとにすごくいらいらしてしまうときというのもある。
でもずいぶんそれも減ってきた。

この、「大人になって誰にも怒られたくないですよね」というのに基本的なところで「そりゃそうですね。あたりまえですね。」と同意できる人とはたいてい仕事がスムーズにいく。
そうでない人とはいろいろ面倒なことがおきることが多い。
ほんとにあきれるほどそれだけのことなのだ。

基本的なリスペクトと、自分と人との違いがわかっているかどうか。

ぼくはぼくで、若い頃はそういう「めんどうな人」といちいちケンカしたりしていた。
(笑 それじゃ結局同じ土俵なのだが)
でもさすがに最近は、上から言われてカーっとこっちも来そうになる寸前で、すごくしみじみと思ってしまうことが増えてきた。年をとったのかもしれないが(笑)

それは、

「人が怒ってるときに言ってることは、だいたい自分本人のことだ」

ということがなんとなくわかってきたからだ。

特に「あなたはこうすべきだ!」という人は、ほんとうは自分がそうすべきだと思っている。自分のことなのだ。怒っているときにその人が言っていることは、自分の考えを述べているのだ。
世の中はこうでなくてはいけないのに!というのは裏をかえせば、「私はこうでなくてはいけないのに!」という根深いコンプレックスである。

誰かに「あなたはこういう人だ!!!」と言われたりすると、若いときはだいたいガーン!!とショックを受けて、そうかぁ、自分が悪かったかぁ。。と思ったりしていたが、最近は
「なるほど、そう言ってるこの人自身のことかぁ」
「あぁ、そうかこの人が、こういうふうになりたくないと必死に思ってることがあるんだなぁ」
とか
そんなふうに思って見れるようになってきた。
そう思ってみるとだいたいのことはなんとなくしみじみしてしまうものだ。戦ってるんだなぁ、なにか僕には関係のないところで。

だいたいの上からの物言いは、言われた方が気にすることはなくて、言った方の人が感じている
「トラウマ」なのだ。
若くてよく誰かに怒られてる人にはほんとにこれを読んでほしい。

そういうトラウマがなければ、いくら自分の尺度から考えて相手がそれと違う!と思ったところで、それを相手に(特に上からの物言いで)訴える必要などだいたいの場合ないのだ。
だって違う人間なのだから。どうしても必要があるときは丁寧にお願いすれば済むことだ。

お互いちゃんとわかっていて、なにが起きてももめないで済む。それは、大人になることの一番ステキなことの一つかな、と僕自身は思っている。まわりが平和な人ばかりというのはほんとうにストレスがなく幸せなことだ。
99%の人はいい年になればそんなことはみんなわかって平和に暮らしている。

でもいまだにそうでない人はいまだになにかを抱えて苦しんでいるということだ。
でも悲しいかな、相手を大人に扱えない人は、本人もそのようには扱ってもらえない。
大変だ。

そう思うと何かできることはしてあげたいな、とは思う。

2018.7.11.

 

 

 

 

2018-07-11 | Posted in EssayNo Comments » 

 

しのごのいう大人にだまされないでね

ここ10年か20年くらいずっと思っているひとつのことがあって、ほぼ確信に近いものが得られたので、書いてみたい。

その10年か20年かの間に

「アートもしくは音楽は、あるなんらかの思想の反映であって、その思想こそが大事なのだ」という考え方や

「アートや音楽の、社会における価値や位置付けを明確にしなければならない」

という考え方が、ほぼ主流を占めてしまったかな?とそういうふうに見える。

そして、新しい価値観や、新しい社会への扉を開くようなものの考え方を待ち、それを発信すること、それこそがアーティストにとって大事なこと、ということが、ほぼ常識となってしまったのかな?と思ってしまうくらい、日々そういう言説を目にしてきた。

かなり前から、それがもしかしたら大ウソなのでは、と心の奥で思ってきた。いや、別にそういう考え方を大事にする人がいるのはまったく構わない。それはそれでよい。

しかし!

そういう考え方こそが、アーティストをアーティストたらしめる条件であるかのように語ったりあるときは学生にそういうことを考えなきゃダメなのだ!と説いていたり、もしくはそこまでいかなくとも「ある自分の考え方を持ってそれ以外の音楽やアートには価値がないというような意見」を言ってる大人に関しては、最近確信を持って、

ほぼ大ウソだな

とはっきり思うようになった。

ほとんどの場合そういうのはその大人自身の「自分の価値を高めるための言葉」であったり、「自分以外のアートを認めたくない気持ち」に近いのではないかなと感じている。つまりすごいざっくり言ってしまえばは本当の自信がないのだと思う。

本当の自信は「私はこれが作れる。作りたい。作っている。(他の人が何を作ろうとも)」ということであって、

「私の作るものはかくかくしかじかの理由で他のものより素晴らしい」ということではないはずだ。後者のようなことを言う人は「本当は何が作りたいかわからない」と言う場合がほとんどと思う。

この確信について論理的に説明しようとしたらそれはそれである程度可能な気もするのだが、むしろ今日は僕が日ごろよく使う「料理」との類似でもう少しだけ表現できたら、と思う。

すごく簡単に言わせてもらうと、

しのごのいっても

「うまいもんはうまい」

ということだ。

そして、料理以上にアートの場合は

その感じ方が人によって「違う」

そこが面白いのだ。

そして、料理もジャンルによらない。高級なものも、軽食のようなものであっても、うまいものはうまい。のだ。

それはどこから来るのか、分析もできるかもしれない。でも基本的には、素材や作る人の「手の技」だ。

こういう料理はいかんとか、料理するならこういうことをわかってなきゃいかん、とかしのごのいう奴のレストランでうまいものを食ったためしはない。

ひどいことを言えば、いくらうまいもんだしてても、店主がある程度以上それについてしのごのしゃべる店は、うまさが半減する。なんでだろう。

そういう言葉と、料理や音楽はほんとうに相性が悪いのじゃないかと思う。ほんとうにうまいもの作る人は、しのごの「大雑把な分類はしない」「簡単に物事を断じない」と僕は感じている。

そしてさらにアートのほんとは一番素晴らしいところは、

うまくないものですら作っていい、というところだ。

意味がなくてもいい!その、あまりにすばらしいそしてあたりまえの楽しい部分を忘れてしまった大人は、一度子供達との音楽やアートのワークショップでも体験してほしい。頭をショックでがーんとぶっ飛ばされた方が幸せになるんじゃないだろうか。

 

自信のない大人はしのごのいうのだ。遊べなくなった人はおぼれそうになって板につかまってるかのように賛同者をつのるのだ。

おぼれる人についていかないでほしい。

ぼくはこの文章を若い人に向けて書いている。めずらしいことだけどはっきりそれを書きたくなった。

どうか、そういう言葉に騙されて、「工夫」しないでほしい。

自分が好きなら好きなことを繰り返す。それは素晴らしいことだ。

しかし頭で考えて工夫する「必要がある」と他からの影響で思うことはほんとうにある意味致命的なのではないかとさえ思う。

自分が「おいしいな」と素直に思えるものを信じて、いや、ほんとうはただただ遊んで遊んで、それでいいと思う。そうやって楽しくだまって作り続けているすばらしい大人がいっぱいいる。ほんとうにちょっと気づけばそういう人がいっぱいいるのです。

そういう人にだけついていってほしい。いや、そういう人はだいたいついていく、とかさせてくれないと思う。ただ対等に一緒に遊べるだけ。そう思ってると思う。

そういうところにしか本当の発見はない。そう思います。

そんな願いを強くもっています。

 

 

 

 

2018-06-09 | Posted in EssayNo Comments » 

 

嫉妬と、硬直した体制。

嫉妬というのはもっとも友情を裏切る

とここ数年よく思う。

怖いことだ。
成功しておめでとうと思えないなら最初から一緒にいなきゃいいのに。とよく思うことがある。

嫉妬してる感情とか嫉妬している表情ほど周りにわかりやすいものはない。
嫉妬は、本人の気持ちとは裏腹に、その人がどれだけ「本当は自分の方がすごいのに」と思っているかをあらわにする。怖い感情だなと思う。わかりやすいところが。

いろんな嫉妬が世の中にあるけれど、経済的成功をしている人に嫉妬している人というのは、本人が成功していない場合でも、経済的成功でいい気になっている人とほぼ全く変わらない価値観だったりする。

困ったことに、経済的に実際成功して単純にそれを喜んでいる人より、「経済はそれほど大事でない」と言っていながら実は深い嫉妬を感じている人の方が、経済優先主義なのではないかと思う。

コンプレックスというのは、実はその考え方に対する強い支持の表れだったりする。

僕の周りにも、全くずっと売れてはいない人から、レコード大賞とって有名になった人まで、そういう尺度でみようとすれば色々いるけれど(真面目に考えたら、そんなの一直線に並べられることですらないのに・・)、面白いことに、その人がそういうことにとらわれているかどうかは、本人の境遇とは全く関係がない、つまり、当たり前のことだが、成功しても何も気にしてない人もいるように、貧乏でもまるで気にしていない人もいる。(実際に困ることはあっても。)

そういうことは、誰かが成功した時の反応とかでよく透けて見える。
実際のいろんなことより、そういう「意識の在り方」の方が大事なんじゃないかな、と思う。
信頼される人は、成功や実績がなくても信頼されるのはそういうことだ。
他の価値観を気にしていないから信頼できる。

そういう意味では、誰か友達の成功を、普通に楽しく穏やかに「よかったなぁ、あいつ」と話し合えたときというのはある意味とてもホッとするというか、なんだか平和な空気が流れる。
それが当たり前と思うのだけど、そうばっかりではない。

嫉妬は平和な友情を裏切る最たるものだ。

そういうことにドキッとするときは、「自分はこれでいいのだ」ということをとことん再確認した方が良いと思う。
現在に満足しないと何も始まらない。

すごい正論を書きすぎていて恥ずかしい気もするが(笑)、でもたまに、嫉妬の裏返しの皮肉のような笑いや表現がなんだか残念な時があるのだ。
そういう皮肉はそれを言った本人のこと以上に、何かすごくがっかりするものを含んでいる。
一見マイノリティーのように見えるものの中に、ものすごく古くて硬直した体制のしぶとさと醜さを感じる瞬間なのだ。

2018.4.3.

2018-04-03 | Posted in EssayNo Comments » 

 

アートは感性? 現場の大切さ。

アートは感性、という言葉を耳にする。それ自体すごく間違ったことではないのかもしれないが、それとともにアーティストは「よくわからない、言葉にできないことを、何となくやる」人たち、とか、「言語では突き抜けられない壁をどーんと感性でつきぬけることのできる」人たち、とかそんなことが当たり前のように言われる時には、すごく深い疑問を感じることがよくある。

アートと呼ばれるようなことを専門としている人で、ある程度真面目に長い時間をかけてきた人ならみな納得してくれることじゃないのかと思うのだけれど、アートは「言語にして説明するよりもっと微細な出来事に関する哲学であったり学問であったりする」と僕自身は思っている。そしてそれは別にアートに限らないと思う。
それについてはまた別の文章を書こうと思うけれど、世の中には「言語にならないことについて言語で発言してはならない」とか「言語で説明できないことは、ない、としなければならない」と思っている人もいる。そういう考え方は特に僕が育った時代には「まだ」主流をしめていたし、僕自身もなんどもそういうまやかしのような「言語優越主義」の詐欺のような罠に引っかかってしまったことがあった。

しかし、実際のところ人間の日常のほとんどの瞬間は、言語になる以前の判断や言語による判断があい混ざって色々に動いている。それがは当たり前の状態であって、だからと言って「はっきり言語にしないこと」は全て「非論理」である、とするのは大きな間違いである。

音楽家はもちろんドレミを使ったり、リズムを使ったり、楽器を使ったりするのだが、それは、経済学者がペンを使ったりPCを使ったりお金に関する計算をするのと同じく、それが主題ではない。
音楽に長い間従事している人に当たり前のようにある一番重要な感覚は例えば「同じ空間にいるというのはどういうことか」「音を出す責任とはどういうことか」といった少々哲学のようなことに近いテーマである。そこまでいってないでプロになっている音楽家は正直あまり周りに見たことがない。
ある程度真面目に長い間それをやってきた経済学者なら「人間にとって経済って何だろう?」という疑問にどこかでぶつからざるをえないのと全く同じであって、音楽家も少なくとも僕のまわりにいるある程度長い間音楽をやってきた音楽家はみな「音とは何か、同じ空間にいて音を出すとはどういうことか」ということを、長い間真剣に考えている。そこらへんのちょっと音楽に関する知識だけかじっただけのような人なんかよりよっぽど考えている。それは音楽ジャンルを問わず、クラシックだろうがポップスだろうがジャズだろうが、プロになっている人はみんなそうだ。だからこそある程度の年になるとジャンルを超えてそういう話がお互いにできて楽しい。
そしてそれは決して抽象的で曖昧なイメージの話などではなくて、音の周波数についてだったり、音を出す時の人の身体や呼吸についてだったり、物の振動についてだったり、そういう具体的なことの話だ。
ところが、音楽家以外の人で、いきなり「いいですね。感性でお仕事できて」というようなことを言ったりする人がいる(笑)なんて想像力がないのだろう。
その人が経験してきているものすごい数の具体的な体験や検証の蓄積が、その人の存在として「思想」としてそこにある、ということになぜ気づかないのだろう、とよく首をかしげる。
言語にならない全ての人の微細な生活の全てが先にあって、それに興味を持って言語化(グルーピング)するのが本当の研究である。言語が先に立ってしまってはそれはただのアジテーション(演説)である。

経済学者に向かって、「あなたはお金のことについてだけ考えているから社会のことについてはわからないですよね?」というのがとても失礼なように、アーティストに「あなたは言語にならない感覚のことをやっているのですよね」というのはとても失礼なのは当たり前のことである。アーティストに限らない。感性だけでする仕事なんかどこにもない。
全ての人が、感性と言語の総力を結集して自分の仕事をしている、そんなことは当たり前のことで、それこそまともな感性があれば(笑)そんなことはすぐわかる。
黙って1日中仕事している人もみんなすごく具体的に色々考えている。僕は音楽家のことしかわからないが、音楽家なら、周波数。物の振動。人間の社会的関係。空間配置についてなどなど、そういうことを日々考えている。何十年も。
それはどんな仕事だってそんなもんだろう。
一日中言葉を使わなくとも、一日中向かっている物事に関して真面目に考えてたら、そこから派生して考えざるをえないことはいくらでもあるし、それはとどのつまり社会についてのことに「否が応でもぶつかっていく」のは当たり前のことである。そして「実際ものに向かっている」というのは言語を言語として扱っている以上に知性的な作業である。身体はそんなに愚鈍な知性ではない。

にも関わらず、言語にしない人には言語はないと思ってるような人がいる。しゃべるとすぐわかる。どっか少しばかにしてるから(笑)。頭悪いなぁ、と思ってしまう。その人自身がまだ「言語」に頼っていて、自分の思想というのに行き着くまでいろいろな物事のしがらみに揉まれてないのだろうと思う。
言語は結果であってそこがゲームではないということに気づいていない。そういうのを本当のバカという。頭の悪さは、「頭の動きの悪さ」ではなく「どれだけ言葉にしばられているか」だ。だから、往々にして愚鈍な人より、よく喋る人の方が本当に頭が悪かったりする。
頭の良さはそういう意味で「まともな生活感覚があるかどうか」なんじゃないかと思う。そういう意味で尊敬できる人がたくさんいる。すごく物事が見えている人というのは世の中にはたくさんいる。僕は割とすぐとらわれる方なのでよくそういう人たちに救われている。

しかしそういうまともな生活感覚がない、というのもそれはそれでとても不幸なことだ。
自分の頭で考えざるを得ない「自由」でなおかつある程度リスクがある現場が身の回りにない、揉まれる必要がない、というのも逆に大変だなと思う。

実際に人に触れ、ものに触れる「現場」というのは本当に大切で貴重だ。
苦労した分だけは必ず何かが実りとして帰ってくる。

2018-04-02 | Posted in Essay, WritingNo Comments » 

 

演奏の録音や録画・Aという子の絵の話・水の影

録音物や映像に関して最近いくつか疲れるやりとりがあった。ある種のことは、文章を書くことでしかいやされないのかな、と思うことがある。そういう「疲れ」のようなものは、社会的なことと、自分個人の心の中にあることとの中間に位置しているのかな、とよく思う。
自分の中でよく説明できない思いがずっとあって、たとえば、誰かがぼくの姿をスマホで撮影してその場でSNSにアップする、それがとても楽しい一場面に思えることもあれば、「え?なんで?」と思って少しだけ心のどこかが傷つくこともある。そんなことからこの文章を切り出したらうまく伝わるのかな、と思う。みんなほんとうは少しずつそういうことがあるんじゃないかな、と思っている。
自分の姿に関してもそうなのだけれど、今日書きたいのは、演奏の録音や録画の話についてだ。
最近二つの録音物や映像に関するやりとりがあった。
ひとつは、ライブの録音をそのパーティーに来ていた人たちに配りたいので録音データをもらえませんか、という話だった。
もうひとつは、自分のライブの録画データをくださいとお願いしたときに、Youtubeの限定公開でアップをしたもののリンクが送られてきた、ということだった。

うーん・・・

両方に関して、ぼくは説明にとても苦労をした。
どこに苦労したかというと、どんな風にお話しても、自分の中の言葉が相手に伝わる段階で「権利(相手にとっては義務)」の話になってしまうことだ。録音の所有権、もしくは、映像の肖像権。そういう話になってしまう。
でもぼくが自分の心の中で訴えているのはそういうことと違う。むしろデリカシーの問題だ。
実際のところ今回の二つの件で、ぼくのライブのデータがなにかの商売になったりする、と考えているわけではないし、それを阻止しようとか、勝手に使うなとか、そういうことでもない。
むしろ、ぼくが訴えたかったことの核心は、
「それを僕が訴えなくてはいけないのだろうか」
という部分の話だった。
だが、結局そこは、ほとんど伝わることはなかったように思う。

世の中では、そういうことは特に気にすることではなくなっているのだな、というのを痛感した。

それが、どんなことなのかを書けるだけ書いてみたいな、と思った。文章という形で。

主人公の名前を何にしたらよいだろう。文章というのはそういうところが難しい。ぼくは文章家でないから、そういうところが少しまだるっこしい。とりあえず、Aとしてみた。
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Aは今日はじめて絵を書いてみた。
絵を書くなんていうのは特にすごいことではない。幼稚園のときから、そして小学校に入ってからも、「自由に絵を描いてください」という時間があった。いわゆるお絵かきの時間だ。
もちろんそういうお絵かきの時間に、Aもいつも絵を描いていた。でも、うまく言えないのだけど、自分で書いていた、というよりは、なにか「書かなければいけないものを、つきあいで書いていた」という感じだった。赤いクレヨンを手にとる。丸を描いて太陽にする。黒いクレヨンを手にとる。人の形らしきものになるように書く。それは、とくに難しいことではなかったが、なんだかすごく悪いことをしているような気がした。でも書きたいな、という気持ちが出てくる前に書くことになってしまったのだから何か書かなければいけなかったのだ。しょうがない、と自分ではいいわけしていた。
でもそんな風に絵を描くようになってしまってから、美術の時間というのは、Aにとってどこかいつも変な罪悪感のようなものを感じる時間になってしまっていた。算数のテストでわかりもしない問題に適当な答えを書いているときにはそんなにその罪悪感を感じることはなかったが、どうしてかクレヨンを自分がなにかに合わせて動かしているときのその感覚はとてもなにか大事なものを傷つけているような、不思議な感じがした。私は誰に申し訳なく思ってるのだろう?
でも今日は違った。
ベランダのところに猫のピーがおっかなびっくりあがっているところを見ているうちに、なんだか無性にそのうしろすがたを自分でなぞってみたくなったのだ。
家でひとりでいる時間だったし、誰が見ているわけでもないのに、いつも美術の時間に使っているクレヨンを出してきて紙に何かを書いてみるというのは、なんだかすごく勇気のいることだった。そんなことしちゃっていいんだろうか?
でも、それよりもピーの姿と、そのおしりのあたりにほんのりとあたっているお日様の光をみてたら、どうしてだか一刻も早くそれを描かないといけない、今を逃してはいけない、そんな気がして、畳の上に学校で使っているスケッチブックとクレヨンを出してきて、Aは思い切りよく、黒いクレヨンを紙になすりつけてみた。
美術の時間には感じたことのないようなどきどき感がそこにはあった。もちろんそんなにピーに似ているように描けるわけでもないのだけど、ピーのおしりにあたっているキラキラしている光を見ながら、なんかそれを写せるわけもないのに一生懸命紙の上のクレヨンを動かしてみてると、自分が不思議なことに「やらなければならないことをしている」という気持ちになった。こんな風に思ったことはなかった。
それは絵の上手いクラスの他の子に自分が勝手に憧れていたような、ロマンチックな感じの作業ではなかった。もっとある意味大切で真面目な作業だった。
あぁ、そうかピーは黒猫なのに、おしりのところにこんな斑点があったんだよな、とか、ピーの毛先にお日様の光がきらきらとあたって、なんだか空気中にふわふわ光線が出てるみたいだ、、とか、いろんな発見があり、同時にいろんなことが頭の中をすごい速さで駆け巡って、すごく集中しているうちに時間がすぎた。
ピーはしばらくベランダで動く虫を見つめてじっとしてたけれど、しばらくすると部屋の方に戻ってきてしまった。
「ピー!じっとしてて」といってピーをおっかけた。
今度は座り込んで自分の足をぺろぺろなめているピーを描こうとしてみたり、ピーをうしろ向けにさせてもう一度さっき書いたおしりの絵の続きを描こうとしたりしていたが、そのうちに、あったかいお日様の中でAは思わずごろんと横になってしまった。
天井を見つめた。
「あー、きれいだなぁ」と思わずAはつぶやいた。それが、いま天井にきらきらとうつっているお日様のことなのか、さっきみたピーのおしりのことなのか、なんなのかわからなかったがそんな言葉が自分の口からついてでてきた。ちょっと涙が出て来そうだった。
よしっと思って、もう一回うつぶせになって、スケッチブックをとって、こんどは自分が思うなにかすてきな絵を書きたいな、と思った。なんだかとても幸せな気持ちだった。
しばらくいろんなことを考えていた。

ふと目が醒めると、もうあたりが薄暗くなっていた。
Aはうつぶせになったまま、開いたスケッチブックに手を乗せたまま寝てしまっていたのだ。
自分の横にちらばっているクレヨンを片付けて、1階に行こうと思った。スケッチブックは自分の机の横にしまった。一瞬、もしかして、この絵を誰かに見られたかな、ということが頭をよぎった。でもたぶん大丈夫だろう。

下で、家族の声がしている。みんな帰ってきたんだ。

下におりていくと、お父さんお母さん、となりの離れにすんでいるAのおばあちゃん、そして弟も集まって何やら3人でがやがやと話をしている。なんだろう。
居間のドアを開けると、みんなが話している。
「いや、すごいねぇ」
「上手だねぇ」
上手?Aはドキッとした。
「上手、上手!」それはいつも美術の先生が言うほめことばだ。

「あぁ、起きて来た、起きて来た。」

お母さんが、Aを見て
「起きたのね、いまみんなであんたの書いた絵を見てたんだよ」と言う。
「え?」
テーブルの上のライトが少し暗くなったような気がした。
絵は上にちゃんとあったのにどうして!
お父さんもニコニコしている。ふとみると、お父さんはおっきなiPadを持っている。
まさか、、と思ったが、そこには自分の書いたピーの絵が大きく写っていた。
<Aのピーの絵>という見出しまでついている。なんだか飾ったようなピンクの文字だ。
「おまえが乗っかっててスケッチブックが抜けなかったから、写真を撮っておいたんだよ」
お父さんはニコニコとして言った。
みんなでそれを回して見ていたのだ。
いろんなことをみんなで話しながら。
「お父さんのFacebookにもあげたら、会社の人がすごいおもしろい絵だ、才能があるってコメントしてたんだぞ」

Aはなにをどう言えばいいかわからなくなって
「ひどい!」
と叫んだ。自分でもびっくりするくらい、涙があっという間に出て来た。
まだ自分でもゆっくり見てないのに。
はじめて描いたピーの絵。

「ひどい!!」
もう一度あらん限りの声で叫んだ。
でも、お父さんもお父さんもおばあちゃんも、大声で笑いだした。
「あらあら、どうしたのこの子は」
「かわいいわねぇ」
「いいじゃないの、上手よ、上手に描けてるわよ。大丈夫よ。」

(なにがいったい大丈夫なんだろう?上手だと大丈夫なんだろうか?)

それを聞いて、泣いてひくひくしていたAのおなかのあたりが、驚くほどぴたっと静まりかえった。
泣いている自分の声はまだ聞こえたいたが、体の芯のあたりがとても静かになってしまった。
こころの中の本当に深いところであることに気づいた。

あぁ、ほんとうに、ほんとうにこの人たちは私がなんで泣いているのかわからないんだ。

大丈夫?大丈夫ってなんだろう。

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おしまい。

ぼくが演奏の録音とか録画に関していつも思うことは、とても簡単なことです。

「できれば録音したり、録画するなら、そのことを自分が知っていたい」
そしてできあがったら、
「まずは自分だけで(もしくは一緒に演奏した人たちだけで、できればいっしょに)じっくり見たい・聴きたい」
そして
「しばらくは、(それを公開するとか、だれかに渡すとか、商売にする、とかじゃなくて)ただ、そっとしておいてほしい」

というそれだけのことです。
しかし、驚くことに、ぼくからすると、「ものを創る人」ならみんなそう思うんじゃないかな、というたったこれだけのことが、ものすごく伝えるのが難しい場合があります。

これはまったく権利の話ではないのです。

自分の気持ちから出て来たばかりの「はだかの恥ずかしいもの」を、こっそり人に見せている、見てもらっている、という感覚は昔のものになってしまったのだろうか。そういう感覚がなくなってもアーティストなんだろうか?

自分の作ったものの複製(録画や録音を)をすると言うこと自体が、かなり暴力的なことだ、というのはほとんど忘れ去られてしまっている。
そして、作った人にとって
「それを自分にください。そしてしばらくそっとしておいてください」
と、声に出さないといけないということ、
そのこと自体が、実は一番傷つくことだ。

「言わなくてもわかってもらえる」ということでしか、報われない気持ち、というものが実際にこの世の中にはある。
そして、それはたぶん世の流れには乗っていない。でもとても大事なものだ。
アーティスト(それが職業でなくとも)はそこを扱っている、と思っている。

ぼくはそういうふうに思ってるが、もちろん、そうは、思っていない人もいる。
アーティストは商業世界の中で、世の中の座標軸の中での自分の位置をはっきり説明できる人、という説明をしていた人の講座を見たこともあるから、考え方はほんとに人それぞれだ。

ユーミンの「水の影」という曲の歌詞に

<よどみない浮世の流れ とびこめぬ弱さ責めつつ けれど傷つく心を持ち続けたい>

という一節があった。

僕は、傷つきやすい人と仕事をしたい。そう思う。
傷つきやすく、それでいて、それを怖がらず、そのまま出す勇気のある人と仕事がしたい。
と思います。
それは、<傷つくこと>を忘れてしまうこととは正反対のこと、と思います。

そして、その傷つきやすさ、をそのまま出していくのは、もちろん「本人」であるべきだと思う。
そして最も大事なことは、「出していかない」ことも大事なことだと思います。
<発表>や<共有>だけがアートではない。
もっと大事なことがある。それはぼくがアートの一番本質ではないかと思っている部分の話です。

ワークショップで、本人が楽器に自分で触れはじめる、ということを一番大事にしているのも、僕の中では同じことです。

2018.2.13

2018-02-13 | Posted in EssayNo Comments »