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陽だまり

陽だまり

もうすぐ改装される予定の駅の階段を降り、そのまま線路ぎわを歩き、踏切を渡ってから、ちょっとだけ脇道に入ったところにそのレストランはあった。
コロッケや炒め物のシンプルなランチを出すお店で、カウンター7席しかない店だったが味に特徴があったのと、カウンター越しに店員さんがジュージューと炒めたりコンコンと切っている音や振る舞いに勢いがあって、いつ行っても会社員や学生で席が埋まっていた。オーナーは別にいるのだろう。店員さんもアルバイトでそれほど愛想がいいわけでもなく、悪いわけでもなく、お客さんもひとりひとりたんたんと食事をして順番にお会計をして出て行く、そんな店だった。
駅の周りはもうすぐ行われる駅前工事のために、歯抜けのように店がなくなっては空き地になり、立ち入り禁止のロープが張られていき、僕がこの町に引っ越して来た頃のほのぼのとした駅前の雰囲気はすでにすっかりなくなってしまっていたが、その店だけはそういう時代の移り変わりにも関係ないものがあるんだと言わんばかりに無表情に同じ営業を続けていた。

そのころ、僕の仕事の状況も、まるで駅前の風景とシンクロするかのように、つい数年前までゆっくり一緒に未来を夢見ていた仲間たちが一人去り、二人去り、ますますうまくたち行かないようになっていた。
毎晩夜遅く電車を降りて、空き地が広がる駅前を通って家に帰るとき、その風景はまるで自分の仕事の状況を暗示しているように感じられた。自分のために用意された不吉な映画のセットのように。
そんな中でもいつもその店だけは煌煌と灯りをつけて営業を続けていたが、その無表情な営業スタイルとまったく飾り気のない店構えは、むしろ僕の気持ちをあせらせることはあっても明るくすることはなかった。まるで、速い時代の流れに負けないためには、より無表情に生きるしかないのだと言われているようなそんな気持ちになった。
僕は次第にいろんなことを悪い方へ悪い方へと考えるようになり、仕事場でも少しずつ口数が減っていった。その年はどういうわけか天変地異のようなことも多くニュースを見るたびにさらに暗い気持ちになっていった。
そしてしまいには家に帰ってから一緒に住んでる彼女のいう言葉のひとつひとつにもビクビクするようになってしまっていた。

そのころの話だ。
その日も僕は駅前の通りを歩いて家に帰り、黙って自分の机にカバンをおいたまま、座り込んで、ほんとにいったいどうしたらいいんだろう、と考えていた。 いや、どうしたらいいんだろうという言葉だけがなんども頭の中でリピートされてはいたが、もう実際には何も考えられなくなっていたんだと思う。
「聞いてくれる?」
顔を上げると、さっきまで台所にいたはずの僕の彼女が、すぐ横にいていつになく真剣な、見ようによっては深刻とも取れる表情をして座っていた。彼女がそばに来ていたことにも僕は気づいていなかった。
僕は反射的にあまり彼女の話の続きを聞きたくないと思った。何があったにせよ、これ以上の厄介ごとにはもう耐えられないんだ、だから頼むから静かにしててくれ。そう思ったがそれすらももう口に出す元気がなかった。 僕はだまって彼女の顔を見ていた。
「あの駅のとこのレストランに今日行ったのよ」
彼女は言った。
彼女の話は僕の頭に染み込まない。ただ、頭のほんの表面の方で、なんだ、そんな話か、とぼくは思っていた。あとの頭の大部分は、いまそれどころじゃないんだ、仕事が大変なことになっているんだ、と思い続けていた。
ただ、昼間に一人で彼女がそこに行ったというのを少し意外に思った。あんまり女の子が一人でごはんを食べに行くような雰囲気の店ではない。ひょっとしてそこでなにかがあったんだろうか。
「そしたらね、、」
と彼女が続けた。
「鳩が入って来たの」
「鳩? 」
僕はびっくりして思わず聞き返した。鳩が入って来たということにでなく、ハトという言葉が出て来たこと自体がすごく意外だったのだ。ハトという生き物のことなんかすっかり忘れていた。というかあの駅前でハトなんかみたことがあっただろうか。
「そう。今日天気が良かったから店のドアがあけてあってね。そしたら、ふとみたら、入口のとこに、ポッ、ポッって。鳩が。」
僕は話の続きを待った。彼女が黙っているので、
「それでどうしたの?」と僕は聞いた
「それだけ。鳩が入って来たのよ。かわいいでしょ。」
そう楽しそうに言うと彼女は再び台所に行ってしまった。
彼女の背中に向けて、僕はずいぶん遅れて
「そうか。」
とつぶやいた。

たぶん僕はその日もそのあと寝るまで、相変わらずいろいろと仕事の心配をぐじぐじと考えたりしていたんだと思う。でもそれと同時に、頭のどこかで、ずっと、あの無表情なレストランの入り口に、となりの空き地からやってきた鳩がポッポッと鳴きながら入ってきているところを思い浮かべていた。
そして寝床に入り目をつむると、なんだかきっとそこに、店先に入って来た鳩の足元あたりに、「あたっていたんだろうな」と思われる、太陽の光がありありと目の前に浮かんだ。
その光景を思い浮かべながら僕は眠りについた。

あれから十何年経って、もう僕は遠くの違う場所に引っ越してしまった。その町では本当にいろんなことがあったのだ。決していいことばかりではなかった。
それでも、いまでも僕がその町のことをふと考えるときに、いつも頭に最初に浮かぶのは、僕自身は見ていないはずの、レストランの入り口の鳩の光景なのだ。

(2016.12  京都平安堂さんでの朗読会にて、朗読家辻曙美さんの朗読のために書きました)

2017-01-02 | Posted in SentenceNo Comments » 

 

So, So(とてもひどかったという意味の)

ぼくはキーボーディストとしてはとても機材(キーボード)を買わない方だったのではと思う。少なくとも今までは。
特にこの10年か15年くらいはほとんど3台のメインのキーボードで仕事を回して来た。
その3台が、ほぼ時を同じくして、最近お亡くなりに(?)なった。というか、お亡くなりになった、と判断せざるをえなくなった。
ずいぶん前から、調子が悪く、何度も修理に出したり、自分でネジをはずして中を空けて調整したり、いろいろしてたが、もういろんなところがガタがきて、もう無理かなぁ、と思いつつ、愛着もあるため、捨てるに捨てられず、ずっと家にただ置いてあったが、そろそろお分かれしようと決心した。
というか決心するために、この文章を書く事にした。
お葬式で読むお別れの言葉のようなものだ。

3人も相棒が亡くなったので、順番に。今日はまずは、Triton Leさんについて。

いままで会った多くのキーボーディストの人は、まず大体車を持っている。キーボードを運ぶために。そして、車になにかあったときのための替えの(同じ機種の)キーボードを積んでいる人さえいた。また、多くのキーボーディストの人は研究のために、もしくは、趣味で、いろいろ新しいキーボードをとっかえひっかえ試したりする。
ぼくは、どっちもうらやましかったが、まず免許がないのと、お金がないのとで、「軽いキーボード」を長く使う、というのがキーボードを選ぶときに求められる必須条件だった。
つまり「軽くて使い回せて丈夫」というのが選ぶ第一条件。
ふつうは第一に音質や音色の好みや機能で選ぶのだが、ぼくの場合はそれももちろんあるけれど、それだけでなく、「機動性」が最重要だった。

80年代以降のレゲエのピアノの裏打ちにはかかせない(と僕が思っていた)KORGのM1というキーボードの音がほしくて、それと同じ音が入っていて、それでも持てるキーボード、、と探して買ったのがこのTriton Le(トライトン・エルイー)だった。
M1自体の方がピアノの音としてはずっと重たさがあってよかったのだが、そこはがまんした。音が重いだけでなく、M1はキーボード自体もものすごく重かったからだ。とても2台は持てない。
でも、ジャマイカのキーボーディストを見て自分がどこが一番好きだったかというと、「チープな音のキーボードでもかっこよく弾いてしまう」のりのよさ、だったから、「多少、廉価版のキーボードでもよいのだ」と自分を納得させていた。
だんだんそれは、納得するだけでなく、なんとなく自分のへんなプライドというかスタイルになっていった。「安っぽいキーボードでもかっこよく弾こう!」と常に思うようになった。

Triton LE というのは、Triton(トライトン)というこれまた有名な(M1よりは時代はずっと新しい)キーボードの、いわば廉価版、ファミリー版(?)みたいなもので、Triton自体よりは軽くて安くて音数も少し少ない。たばこで言うところの、キャスターマイルドとか、コーラでいうところの、ペプシ・ライトとか(そんなのあったけかな)、そんなようなものだ。
だから、これを使い始めたころは、「なんでLeなんですか?」とか現場のスタッフに聞かれたりすることがあった。
たとえば、たまに大きいツアーがあって、好きなキーボードを現地レンタルできるなんてときにも、自分の持ってる使い慣れたものと同じものがよいから、楽器担当の人に「なにを用意しますか?」と聞かれて、「Triton Le 2台でお願いします」なんていうと、
「え?Tritonじゃなくて、Leですか?Triton頼めますよ。Leにしなくても。」
「いえ、Leがいいんです。使い慣れてるんで、、」
「えーと、でもLe  をあえて使う方はあんまりいらっしゃらないので見つからないのですが、、」
なんてことになったりした。
あれは、廉価版でステージで使うものではないですから、、と、笑い飛ばされてしまったこともあった。
でも「他の人にとってチープなキーボードと見られてても、慣れてるものを使うのが自分のスタイル」ということには、勝手にプライドを持っていた(というかそう決めないとどうにもならなかった 笑)ので、「いや、絶対Triton Leでお願いします」と突っぱねて、楽器担当の人がこまったあげく、Leをその機材レンタル会社の新しい機材として買ってくれたことすらあった。いまから考えるとほんとうにありがたい話だ。というかわがままだったなぁ、と思う。

実際のところ、廉価版のためかちょっと音が軽いなぁ、という音色もあったりした。そういう場合は、プログラムをいじってちょっと重さを加えたり、いろいろ工夫をしないと納得できない場合もあったがそうやって作ったいろんなパッチ(音のセットみたいなもの)がたまっていくのが楽しかった。

そして、いろんな思い出がある。今でも忘れられない音楽についての思い出。

そのころ僕は大体普段は、ぼくは東京に住んでるアフリカ人やジャマイカ人の人たちのバンドで飲み屋さんや、パーティーなどで演奏するのがメインの仕事で、たまにジャマイカから来たアーティストのバックをやらせてもらったりしていたが、はじめてMINMIという日本人レゲエアーティストのバックで、仕事をさせてもらったときのことだ。
基本レゲエは(というか「僕が考える」レゲエは)、「自分の手で弾けないものは弾かない」というのもひとつのプライドというかポリシーのひとつと思っていたが、MINMIの曲でどうしてもこれは2本の腕では弾けない、という曲があった。
そのときまではぼくは知らなかったが、日本のポップス業界の場合はそういう場合はどうするかというと

①もうひとりキーボーディストを入れる

②シーケンサー(コンピューター)を使う

のどちらかにしましょうってことになることが多いらしいのだ。①は予算とかの問題があってその曲のためにもうひとり人員を増やすというのはなかなか難しい場合が多いので、②にしないか、という話になることが多い。(ということをぼくはそのときに始めて知ったのだ)。
コンピューターで作ったオケを流してそれに合わせて弾くというのはその後もなんどか日本のレゲエの現場で頼まれた事がある(これを「同期」と呼ぶ)が、ぼくは基本的にあまり好きでなかった。
「同期」と「あてぶり」は絶対やらない、というのがポリシーだった。
あてぶり、というのは実際は弾いてないけど、映像のために弾いてるふりをすることだ。
同期はやってできないことはないけれど、あまり楽しくはないし、やっぱりLive & Direct というレゲエの大事なキーワードの一つである言葉が表している、直訳すれば「生(なま)で直接!」という精神がぼくは好きだったし、そのときにもなんとかひとりで弾いてやろうと思った。
で、結局どうしたかというと、右手の親指でストリングスの音を弾きながら、他の指で、エレピの音を弾く、しかもエレピの音も一つの鍵盤を弾いたら二つ以上の音つまり和音が出るようにプロミラミングしておく、そして左手でピアノを弾く、というようなことをしてなんとか解決した。
MINMIの仕事をきっかけに、しばらくそういう、「ひとりでどこまでたくさんの音を弾けるか」みたいなことをやってみていたが、(つまり打ち込みで作られた曲は重ねてある音色の数がすごく多いのだ)あるときふと、これはあれに似ている!と思った。
それはなにかというと染之助染太郎?だっけ。あの、お正月に出てくる、傘の上で升を回してごらんいれます〜みたいな芸人さん。なんかああいう、職人的な気持ちになってくる。もちろん染之助染太郎さんみたいにまですごいことをやってるわけでもないが、なんかやってる気分の中に「いつもより多く弾いております!」みたいな気分が含まれている。

しかし、あるとき、ちょっとせつなくなる出来事があった。
一回MINMIのライブが終わって見にいてくれていたポチくんというキーボーディストの友達に感想を聞いたとき、「あの曲は、同期つかってたでしょ?ひとりじゃ弾けないもんね」とさらっと言われた。
「え!一人で弾いてたんだよ」
と言うと
「そっかーぜんぜんわからなかったな」
とこれまたさらっと言われた。
ガーン!ひとりで弾いてたのに!と思うと同時に、「それもそうだよな、独りで無理して弾けたところでそれがなんなんだろう?」と考えさせられた。

そしてその後、またあるとき、それに関してより本質的にショックなできごとがあった。ショックというか、とても胸にズガーンときたことなのだが。
L.U.S.T.というジャマイカのアーティスト(ルーキーD、スリーラーU、シンギングメロディー、トニー・カーティスの4人組)の日本ツアーのバックをしたときのこと。
ぼくは張り切ってたくさんの音をプログラミングして、本番もいっしょうけんめい弾いたのだが、そのライブが終わったあとのこと。
ぼくが「ふーっ、終わった、、」と思って椅子に座ったのもつかのま、あるお客さんが、たぶん日本在住のジャマイカ人の人だったのだと思う、がぼくの前に来て座った。しゃれたメガネをかけていた。友達と二人だったと思う。なんだか、とてもさりげなく、さりげなさすぎて、え?と思うような感じで気づいたら僕の前に二人が座ってにこにこしていた。
彼は、グラスに入ったお酒をゆっくり飲みながら、しばらくしてから、かなり上手な日本語でゆっくりとぼくに話しだした。
「きょうのライブはどうだった?」
急にお客さんの方から聞かれて、ぼくはすぐ答えられずに、ちょっと間が空いた。そして、「楽しかった」というようなことをたぶん言ったのじゃないかと思う。
そしたら、彼は続けて、
「ジャマイカ行ったことある?」とぼくに聞いた。
「いや、ない」とぼくが言うと、彼は、
「ジャマイカのライブはほんとうにすごい。たぶんあなたは知らない」と言ったあとで、ゆっくりと間を置いた。ぼくは何も言えずに黙っていた。
まわりにはライブのあとの音楽と人々の騒ぎ声が満ちていた。
しばらくして彼がゆっくりと言った。
「悪いけれど、今日のライブは、」と言って、手のひらを下に向けて、
「so,soね」
と言った。
英語の、so,soと、ぼくに向けたやさしさの「ね」。
英語の意味はたぶん「まぁまぁ」という意味だが、しぐさは、あきらかに「ぜんぜんよくなかった」という意味だった。手のひらがしっかりと下を向いていた。
ぼくはギクっとした。
そして、彼は続けた。
「あなたは、たくさんの音をキーボードで弾いた」と彼は言った。
「ギターの音をキーボードで弾く。ブラスの音をキーボードで弾く。あなたはたくさんの音キーボードで弾いた。」
そして、ぼくの目をじっと見て、
「でもオルガンだけでもいい音楽できる。」
「わかる?」
と彼は言った。
しばらくの間、それはほんの1秒か2秒だったかもしれないが、ぼくの目じっと見た後、彼はふいに、
「とにかく、今日のライブはSo,So。ごめんね。じゃあ、向こうで楽しんでくるよ。」
そういうと、彼の友達もリズムを合わせたように立ち上がってどこかへいなくなった。

あきらかにそれは、「期待してきたけど、残念だった。そしてそれはあなたのプレイに問題がある」というメッセージだった。
もちろんのことだが、ぼくはすごく落ち込んだ。
と同時に、なんだかそういう音色のプログラムにばかり夢中になっていた自分についてすごく考えさせられた。
今考えると、ほんとうにありがたいメッセージであった。
もちろん、そう思えたのはしばらくあとになってからだったけど。

もちろん、仕事によっては、いろんな音を出さなくてはいけないこともある。でもそれをどう省略して、少ない音色で「いい」演奏をするか、というのも大事だな、とはっきりそのときに思った。元曲を再現することに夢中になってはいけない。
音色の数について考えるときは、今でもだいたい、そのときのメガネをかけたジャマイカ人の顔が出てくる。
しかし困ったことに、ついつい元の通りに音を増やしてみたくなったりするくせは多分いまだに抜けていない。だから今またその同じジャマイカ人が演奏を聴きに来ても。
「まだ同じことをしてるのか。」と言われるかもしれないな、と思う。

もともと、レゲエは、というか音楽は、「音を出してないところ」で語るものだ、とはよく言われる。それが真髄なんだと思う。たくさん出したからいいってもんじゃない。
しかし僕はいまだにその域には行けていない。
が、そうなんだと思う。

頭の悪いぼくはやってみないといろんなことが体に沁みない。よく頭がいいですね、と僕に言ってくる人がいるが、自分でほんとに自分は進みの遅い人間だな、とつくづくよく思う。
そのときも、とことんたくさんの音を出すのにはまってみて(笑)結局そんなことに気づいたのだったが、それでもそんなにすぐはそういうくせはなおらないのだ。

とにかく、そんなわけで、このTriton Leには、そんなプログラムがやたらといろいろ入っている。
今、捨てようとしてそういう自分が作ったプログラムを弾いてみてると、すごく笑ってしまう。はしからはしまで指でなぞると、いろんな音色が出てくる。よくこんなに並べたなと自分でも思う。たしかにちょっと病的かもしれない。
でもどこか、なんだか昔のアルバムを見ているようだ。
そして、キーボードの上には、ところせましと、「あんちょこ」つまり試験でのカンニングペーパーみたいな紙が貼られている。本番直前にどうしても不安なことをメモしてはったり、曲順の紙をはったりしてたものが2重3重に重なっている。そういうのも張ってるとよくジャマイカ人とかアフリカ人に「そんなの見てるようじゃだめだ」と怒られたものだ。かなり劣等生としての自分。
そして、いろんなところでもらったステッカー。いろんなところに一緒に旅をした。

本当に長い間お疲れ様でした。そしてさようなら。

また、今度、あと2人のお亡くなりになった相棒、ノードエレクトロ(初代)、と、Yamaha CS2xさんについても書きたいと思う。それぞれに違う思い出がある。

tritonle

(2014.11.30)

2014-11-30 | Posted in SentenceNo Comments » 

 

国会議事堂のプール。三谷のお刺身。インド。

20代の半ばのころのどうでもいい「プール」の話。
ぼくは、その夏、生まれてはじめてプールの監視員のバイトをした。
ぼくは子供のころ、体育全般苦手だったけど、泳ぎがもっとも苦手だった。夏のプールはただただ恐怖だった。バタ足で1メートルも行くと立ってしまうタイプだ。水に顔をつけるだけでも鼻に水が入っていやだった。低学年のころ毎朝洗面器に顔をつける訓練をしなさいと言われていやいややった。
プールの深い方はくっきりと水面の色がはっきり違って黒く見えるくらい恐ろしかった。別にほんとうに色が違うわけでもないのに。一度怖くなるとまったくだめなタイプだから、プールだけでなく、さかあがりも跳び箱もマット運動も全部苦手だったが、プールがもっとも怖かった。
なんと小学6年生にもなって、学校のプールで溺れたことがある。
学校のプールはたてが25メートル。横が何メートルだったか忘れたけど、とにかく一番深いところはぼくの背では足がつかなかった。ぼくはすごく小さかった。
ぼくはその一番深いところを通過するときに恐怖にかられてバタ足が続かなくなり、パニックになった。ほんの1メートル先のプールサイドまで行けないのだ。自分がおぼれている?というのにおどろいた。6年生にもなってまさかプールでおぼれるやつがいるとは誰も思わないから、最初は誰も気づいてくれなかった。
そのうち、体育の先生が飛び込んで助けてくれた。先生に助けられてプールサイドにあがる瞬間、ぼくはみんなにいつものように(鉄棒で、さかあがりをしようとして怖さのあまりに自分から両手を離してしまって地面にガツンと落下したときのように)こっぴどく笑われるんじゃないか、、と思ってドキドキした。
でも実際にプールサイドに上がったときは、特にだれもなんの反応もしなかった。なかったことのように。もうみんなそんなに子供じゃなかったのか、あまりに悲惨で笑えなかったのか。かわいそうと思ってくれたのか。

そんなぼくもどういうわけか、大人になるにつれてある程度は泳げるようになっていたけれど、特に得意ではなかった。だからまさか自分がプールの監視員をやるとは思ってなかった。
大学を出たあとのことだ。
その年の夏、そのころつきあっていた彼女(ぼくはミュージシャンを目指していて、彼女はイラストレーターを目指していた)と一緒にできるバイトはないか、とアルバイト情報誌を見ていたら、いきなり彼女が「プール監視員募集、初心者歓迎」というのを見つけたのだ。初心者でもいいというのに二人ですごく驚いた。おもしろそうだよ、面接受けてみようよ。
ぼくは彼女と一緒にバイトができるというだけでうきうきしていた。
面接に行ったらおどろいたことにすぐ採用された。
そして、もっとおもしろいことに、ぼくらが担当することになったのは、なんと、「国会議事堂」の中にあるプールの監視員のバイトだった。

「国会議事堂」の中にプールがあるんだ、、ぼくの頭の中にはなんだかものすごいきれいなホテルのプールのような光景が浮かんだ。

初日に、国会議事堂に行った。
想像したのと違い、小学校のときのプールと同じようなプールだった。田舎の小学校に来たのかと思うような景色。やはりたてが25メートル。そして苔だらけだった。
まわりに見えるのは、すごく大きいけどひと時代前のビル?という感じの建物がひとつだけ(あれは議員宿舎か何かだったのか、もう忘れた。国会議事堂自体は、プールからはまったく見えなかった)。
ぱっと見たとき、なんでだか「社会主義の国ってこんな感じかな?」と思うような風景だった。東京のど真ん中にいるとはまったく思えなかった。

一年放置されたプールの水はすごく濃い緑色になっていて、プールサイドにもたくさん苔が生えていた。
そういえば小学校のとき、夏になると、先生と一緒にプール開きの手伝いをさせられた。ま緑になったプールにぼくが溺れたときに助けてくれたその体育の先生が、(あれはプールの底にある栓を抜きに行くためだったのか理由は忘れてしまったが)さっそうと飛び込んで行く姿を急に思い出した。飛び込みの美しい姿勢。ま緑の水(ぼくにはそうとう気持ち悪く見えた)をものともせずとびこんでいくその先生の男らしい感じ。
ぼくはその先生をいつもかっこいいなぁ、、と思って見てたのだった。

プール開きの日まで、4人でひたすらプールの中とプールサイドをデッキブラシで磨いた。数日後にプール開き。それまでに間に合わせなくてはいけない。
4人というのは、上司のおじさんが1人、ずっと監視員をしてる大学生が1人、そして彼女とぼく。
上司のおじさんは二人。大学生も男女二人。交代でどちらかが来ていた。ぼくと彼女は毎日。
高圧洗浄機というものもはじめて使った。どう見ても落ちないと思われたプールサイドが少しずつ白くなっていく。毎日ここからここまで、と決めて一生懸命磨いた。

そして、プール開き。
はじまってみて、ぼくがなによりびっくりしたことは、一日の利用者の少なさだった。
昼休みの1時間の間に、泳ぎが好きな国会議員や秘書のようなひとたちが数名くる以外は、利用者がほとんどいなかった。一日平均10名というくらいの感じだったと思う。たまーに天気がよく気持ちのいい日には、たくさんの人がくることもあったが、雨の日などは一日中誰もこないこともあった。

それで毎日こちら4人分の仕事料が出てるのかと思うと、やっぱり贅沢な場所だなぁ、と思った。
時間がいくらでもあったから、少しずつ「救助法」の基礎となる泳ぎを教わった。
最初に教わったのは、おぼれた人を助けるための、「巻き足」というものだ。立ったまま両足をくるくるとかきまわすように回して、水中で浮かんでいる訓練だ。
「巻き足が得意なおばさんは、水中で巻き足しながらお弁当たべたりできるんですよ」と大学生に言われておどろいた。

ひまな日は、ほとんど一日中自分たちが泳いでいることもできた。日に日に、小学校のプールで溺れていた僕も泳げる距離がだんだんとのびていった。
「長距離泳ぐときは、ほとんど寝ながら泳いでるみたいな感じでいいんだよ」と上司のおじさんが教えてくれた。たしかに力をぬけばぬくほど楽におよげるのだ。まったく前に進もうとか考えなくても少しずつ前に勝手に進んで行く。小学校ではこういうことは習わなかったな、と思った。
泳ぎが得意ではなかった自分が毎日少しずつ水になじんでいった。

上司の1人は、生まれてから会ったなかでもっとも典型的な「江戸っ子」という感じの人だった。「浅草?あんなとこ、だいきれーだよ」とよくその人は言った。でも飲みに行ったりして、祭りの話になると、とろけるような顔で「祭りはえ〜ぞ〜」といつも言っていた。
古式泳法の達人で、見た事もないような泳法をいっぱい見せてくれた。なんだか花火みたいな名前がついた泳法があって、きれいだった。猟銃を打つのが趣味で、おれは戦争になったら鉄砲で三谷を守るんだ、とよく言っていた。
一度、「三谷に世界一うまい刺身の店があるからつれてってやる」と言われて連れて行ってもらったお店は、まるで誰かのうち?ここ入っていいの?という感じのお店に見えないようなところだったが、そこで出て来た刺身は500円でこれでもかというばかりにどっさりいろんな刺身がもられていて、あとにも先にも人生の中で食べた刺身の中で一番うまかった。
いったいどうやって仕入れてるんだろう?と思った。

たまにそのおじさんの子どもがプールに遊びにきた。おじさんは、プールサイドの椅子に足をかっと組んで座りながら、
「おい、まっつぐ行ってしだり、って行ってみろ」と自分のこどもに何度も言った。
江戸っ子は、サ行と、タ行もしくはハ行が入れ替わるという話は聞いていたが、そのおじさんがそれを子供にふざけてしょっちゅう教育してるのがおもしろかった。
男の子は元気なでかい声で「まっつぐいってシダリ!!」と叫んでいた。
おじさんはそれを見て得意そうにいつもニコニコしていた。

もうひとりの上司はなんだかおっとりした感じのおじさんだったが、ある雨の日にその人にインドの話をされた。
プールサイドの小さい小屋のようなところに、3人で(その日は、大学生はおやすみだった)並んで座っていた。ぼくと彼女とおじさん。
ぼくは、小さいラジカセで自分のつくったベスト曲集のカセットをいつもかけていたのをおぼえている。キャロルキングとかプリンスとかなんだかそのころ好きだったものがランダムにいろいろかかっていた。
プールサイドにふりそそぐ雨を3人で横にならんでじっとみつめていると、そのおじさんが、急に
「インドに行ったことある?」と言った。ふだんもの静かな感じのそのおじさんが急にそんなことを言うのでぼくはちょっとおどろいた。
「ないです。」というと、
「君は行ってみたらいいと思うよ」
と言われた。

??

「人生観が変わるよ」
「そうなんですか?」
プールの向こうに見えるかなり古い感じのコンクリートの建物と、プールに落ちる雨をなんとなく見つめながら、インドのことを考えた。
「気づくと足下に死んでる子供がいて、ふんづけちゃいそうになったりするんだよ。」
とその人は言った。
それ以上は特に何も言わなかった。

大学生の監視員二人の男女にも、ぼくと彼女はすごく好感をもっていた。
身の回りにまったくいないタイプだったのだ。びっくりするくらい肌を露出する競泳用の水着をいつもピタっと身につけ、二人ともものすごくスタイルがよかった。さわやかで明るく、同時にいつも自然体だった。
ぼくも彼女も背が低いほうだったが、二人は背が高くすらっとしていていて、美男美女だった。なんだかドラマに出てきそう、、と思った。
どう考えてもすごくモテるだろうなぁ、、、などとぼくはすぐうらやましく思っていたが、本人たちはまったくそんな感じの意識もないようだった。
「ほんとうに二人はさわやかだよね、、」と彼女とよく話した。

変な話だけど、「毎日日常的に水の中にいる」、っていうこと、をいままで自分はまったく知らなかったのだな、と思った。
それは人をどこかでやっぱり変えるのだなぁ、と思った。

水、かぁ、、

と思った。

そのバイトを続けるうちに、ぼくも彼女も日に日に体が丈夫になっていった。
バスに乗るときとかに、少しぐらい揺れても、ぜんぜんらくちんになっていってるのが自分でもわかった。自分は運動部の経験もなかったからそんな風に自分の体が目に見えて変わっていくのがとてもおもしろかった。
特に、彼女はそれまで小さいころに自転車に乗ってるときにうしろから車に追突されてひざをケガしたことがあって、疲れてくるといつもひざを痛がっていた。痛くなってきたときの彼女の悲しい顔はぼくにとって日常のひとこまみたいになってた。ひざの「お皿」の骨が変な具合にくっついてしまってもう一生直らないのだ。
でも、ある日彼女が「最近ぜんぜんいたくないんだよ!!」とすごく嬉しそうに言った。「巻き足がすごくいいみたいなんだ」。
なんだかすごいまぶしいような笑顔でそう言っていた。

夏。長いようで全部で2週間くらいのことだったんだろうか。なんだか思い出すと夢の中のできごとみたいだ。のどかな国会議事堂のプール。

最後に仕事が終わる日に、全員でビヤガーデンに行った。
江戸っ子のおじさんは始終ニコニコしてたけど、ほんとにその瞬間だけすごく真面目な顔で、 「正直、おまえを見てるとさ、おまえがほんとに思いっきりなにをやりたいか、まったくわからねぇんだな。」
と僕に言った。そして、
「やりたいことをさ、もっと思いっきりやったらいいんじゃねーかな、って思っちまうんだけどなぁ、、」
とビール片手に、ちょっと困ったような顔をした。
インドの話をしてくれたおじさんは横でだまってにこにこしていた。

なんだかそれをよく思い出す。

(2013.02.18)

2013-02-18 | Posted in SentenceNo Comments »